阪神・淡路から東北へ
東日本大震災から4年を迎える直前の2月14日と15日、福島、宮城、岩手の各県立美術館と被災地の一つである岩手県釜石市を視察した。はじめに訪れた福島県立美術館では、東日本大震災復興支援として特別展「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」が開催されていた(4月5日まで)。小雪交じりのなか老若男女が続々と展覧会に足を運ぶ姿があった。鑑賞を終えた福島市内在住の男性に円空の魅力について話を伺うと「以前から円空の彫りものが好きで、これまで東京や埼玉で開催された円空展にも行きました。やはり素朴さや優しさがあり、他の仏像とは違う独特な彫りものですね」との感想を頂いた。
江戸時代初期、美濃(現在の岐阜)に生まれ、修験者として北海道から近畿までを巡った円空は滞在した村々に仏像を残した。その数は生涯で12万体ともされ、現在5千体以上が知られている。北海道・有珠山の噴火(1663年)では、3年後、小幌の洞窟で仏像を彫って山が鎮まるよう安置したと言い伝えが残されている。円空仏が当時の庶民から信仰され現在もなお親しみをもって人々の心に寄り添う力があることが実作からも強く感じられた。
一方で、東京電力福島原子力発電所の30、40年ともされる廃炉作業は人々の生活や心に影を落としているに違いない。同館では放射線量を測定し屋内外22箇所のモニタリング結果を定期的にホームページで公開、安心への発信を続けている。開館から30年余りが経過した同館は今展終了後、空調設備等の改修工事のため4月6日から2016年3月までの予定で休館となる。
岩手県立美術館で聞く―美術館の未来
東日本大震災は被災地域が広範囲にわたり、同一県内でも津波による被害が集中した沿岸部と内陸部では現状が大きく異なる。盛岡市にある岩手県立美術館では、震災直後は復旧復興のために年度予算が大幅に削減された。そのなかで、美術館から離れ「あーとキャラバン」と称し、被災地域に出向いて親子向けのワークショップなど、「今やれること」を実施してきた。ようやく平常を取り戻したなかで、震災をどう考えるか。そこには「時間」が大切になってくる、と大野正勝・首席専門学芸員兼学芸普及課長はいう。
「2、3年では過去の記憶を思い出したくない、あるいは現場にも近づきたくない、という気持ちが強いかもしれません。しかし20、30年経つと違う思いが生まれてくるのではないでしょうか。物事の捉え方も時間とともに段々変わってくるでしょうし、被災をどのように考え、どのように受け止めれば良いか、と考え生活するなかで人間は成長する。そのなかで一つの哲学や思想が生まれてくるのではないでしょうか。その気持ちの変化は風化ではなく変容という考え方で、それが成長に繋がるのではないでしょうか」
「忘れないという意味では現物資料を見せることも大事です。記憶を思い出すあるいは考える手立てを提示すること、それが美術館博物館の役割でもあります。震災あるいは戦災でも、直接経験していない人が想起して哀悼の意を表す。悲惨なことを思い出すことは苦しく辛く心が痛むことであるけれど、追悼のための悼みとして自ら心を痛める。苦痛とともにないものはやはり絵空事であり、残された人が納得するために悼み哀れむことでしかないような気がします」
これからの美術館像については「人間の消費活動は《食べる、見る、買う》の3要素が原点ともいわれています。美術館といえども経済の仕組みに組み込まれていないと継続できませんから、《見る》という部分だけ一所懸命クローズアップしてもなかなか人は来ません。これからの美術館は《食べる、見る、買う》が同時に満たされることが大切ではないでしょうか。つまり、美術館に行く必要性がある、美術館に行ってみたい、という仕掛け(ブランド=あこがれ)をつくり認識をしてもらうことでしょう。これからの美術館は展覧会をやることと同時に人の消費活動における総合インフラ=街になっていければ」という言葉を残された。
文化財レスキュー事業と復興支援事業
東日本大震災直後、文化庁の要請により被災した博物館・資料館などから文化財を救援・応急修理をするための組織「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会」(2013年3月末解散)が立ち上げられ全国の学芸員がボランティアとして活動に参加した。この活動の後、本格的な修復が行われ多くの文化財が消失を免れ、過去から続く有形無形の叡智が次代へと受け継がれている。現在、救済委員会の構成団体の一つであった全国美術館会議では東日本大震災文化財レスキューの記録集を同会議として近日中に纏める予定となっている。
文化財レスキュー事業とは別に、この間、被災地支援のための展覧会も開催されてきた。2012年の「東北三都市巡回展―ルーヴル美術館からのメッセージ:出会い」、2013年の「東日本大震災復興支援 若冲が来てくれました プライス・コレクション 江戸絵画の美と生命」はそれぞれ岩手、宮城、福島を巡回し、多くの鑑賞者を集めた。宮城県美術館では2014年夏に「東日本大震災復興支援 特別公開 ゴッホの《ひまわり》展」を開催し、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館蔵の《ひまわり》が話題となり6万人余りが訪れた。前年の2013年度は年間入場者数も20万人を超え館始まって以来の記録となった。
こうした状況について、三上満良・宮城県美術館副館長は「復興支援のもと鑑賞者が優れた美術品を見ることにより文化の力をあらためて確認する機会になっています。一方で、鑑賞者が受容する文化的なサービスレベルが上がっているなかで、美術展の持つ意味を考えざるを得ないという一面もあります。予算面でも自前でサービスレベルを維持することができるのか。あるいは、現代美術に特化した企画や美術史を再検証するような企画などをどのように捉えていくか。美術展の状況は特に海外展などの巡回が大都市に集中していて、地方には巡回しづらい現状があります。仙台では展覧会を見に東京に行くツアーなどもありますし、これからの鑑賞者=ファンとして若い層にもいかに足を運んでもらうかが課題としてあります。キャンパスメンバーズといった学生向けの制度も震災後に導入しました。そういう意味では、美術館が展覧会をするための場所だけではなく、カフェがあってそこで待ち合わせをする、といった身近な場所になる。それとともに、地域の美術史の再検証として埋もれている作家を発掘することも地方美術館ができることとして、あらためて重要だと思っています」と現状を語られた。
被災地・釜石にて
約3年ぶりに釜石市を視察した。市内の中心へ向かうと点在ながらも、銀行、食事処、一般雑貨、食品店などが建ち日常の営みが一部で広がりを見せていた。道路沿いで自営業を営む男性に話を伺うと「このあたりはいくらか良いが、海側はかさ上げをしなければならず、(復興は)まだまだですよ。この場所の目の前にも復興ビルが建つ予定です。2014年3月にはイオンタウン釜石がオープンしました」と現状は必要最低限の生活必需品が保たれている、といった感じであった。一方で、新たに数件のホテルが建ち営業をしていた。
さらに歩みを進めると地元医院の外壁に、医院の看板に加え、一段高い2階の窓と同じ高さに「2011・3・11 東日本大震災 津波浸水深ここまで」のプレートが掲示されていた。また別の場所には「津波避難場所」を矢印で示す案内板がいたる所に設置されていた。駅までの帰り道は岩手県交通のバスを利用した。車が生活の中心である現代のなかで、特に高齢者にとってバスは欠くことのできない交通手段となっている。今でも街のシンボル企業は新日鐵住金 釜石製鐵所であり、釜石駅に面した外壁に「鉄のふるさと釜石 橋野高炉跡を世界遺産へ!」と書かれた横断幕が掲げられていた。街の遺産を次代へ継承したい、という未来へ向かう市民のスローガンのようであった。また、3月2日には2019年日本開催のラグビーワールドカップの開催都市の一つに岩手県・釜石市が決定したことも明るいニュースとなった。
取材を終えて
今回は阪神・淡路大震災と東日本大震災の被災地にある美術館博物館を中心に取材を行った。未来への明確な道がある訳ではないが、それぞれに問題を深めこれからを探っている姿勢が印象的であった。自らの日常でできることを引き続き模索したいと考えている。
(新美術新聞編集部 油井一八)