初めから世界を目指せ 東京も大阪も認める - 塚本
特別対談が行われた「大阪芸術大学ほたるまちキャンパス」。大阪の中心地、新しい文化・情報発信の街“ほたるまち”。その一角にある堂島リバーフォーラム3階に、2008年7月に開設された。面積約220坪、内部にギャラリーやレクチャールーム、TVスタジオなどがある。(大阪市福島区福島1-1-12 堂島リバーフォーラム3F)
―国際化時代にどう対処するか、グローバルに広げていくというお考えは。
塚本 建学の精神に「国際的視野に立っての展開」があります。いま僕が国際部長としてそのセクションにいますが、もともと今までずっと続いてきたものを僕が継承してやらせてもらっているだけのことなのです。どなたもご存じの通り、やはり海外に行くということが一番刺激になりますし、外に出ないと日本もわかりません。
絹谷 そう。そして愛国者になるのね、向こうへ出ると。
塚本 日本の中だけにいたら、世間は狭いじゃないですか。やっぱりヨーロッパや海外を回って帰ってくれば、自分の中でいろいろ変わって帰ってきますので、外を知るのも大事ですし、内を知るために外を知るということも大事だ、ということですね。それぞれ、アメリカ、韓国、中国とは作品交流展をやってます。アメリカはカリフォルニア美術大学、韓国はソウルの弘益大学校、あと中国は上海大学等と交流しています。これは本当に学生の交流でして、たとえばセミナーですと、イタリアの大学に入って向こうの教員から指導を受けて、ワークショップし、向こうの美術館を回って…ということをするのですけど、作品交流展の場合は自分の作品を中国で展覧会したり、それを交互にやるんです。アメリカも韓国もそうなのですけども、向こうの学生と実際に自分の作品を見ながら交流できる。
絹谷 芸術と音楽には、言葉は後からで良いとも言えます。他の学問だと一旦言葉に換えないとはなしにならないけれど、絵を持って行けば一目瞭然に向こうの心と照らし合わせられるわけですね。これが芸術のすばらしいところ。だからすぐ友達になれる。
また旅というのは人を非常に成長させるんですね。異文化の中へぽんと放り投げられる。そうすると眼に映ってくるものが、電線だとか細い路地だとか日本的な風景がいま眼の後ろ側に入っているとすると、違った場所に行くとその景色がそのまま自分の柔らかい脳に映ってくるわけです。いわゆるシャッフルするというか、本当に青天の霹靂みたいに、何かをピリッとつかむときがあるのです。
外国との交流は大切にして、自国を感じる双眼をも、持つことが大切です。私は奈良生まれですが、奈良にいる時は意外と地元は見えないものです。ところがヨーロッパへ行って奈良を見ると、宝物が山ほどあるなというのがわかったりします。それは形もそうだし、心の問題も同様です。故郷の与えてくれた自然の佇まいが、今度はそのまま新しい形で入ってくる。身近な所にこの様な良いものがあったということが、再認識させられる。そういう点でもこうした国際交流は大切だと思うし、向こうから来た人も、訪ねた国を悪く思わないです。行って知っているのと、知らないのとではね。知らないといろいろ邪推するのですね。だから僕は、前政権のときに観光庁の最高アドバイザーというのをやっていて、1万人向こうへ連れて行って20万人来てもらうとか、そういうことをやっていたのですけど、やっぱり知っているということは当たりが違ってきます。交流を、芸術を通じてやるということは大事だと思うし、それは無償の心を通わすことですからね。商売でやっているとちょっと、損したとか得したとか、何か憎しみに変わったりする、政治も同様ですね。芸大がやっている地道な活動というのは、これからますます大切になってくると思います。
大阪芸術大学校章(左) 学校法人塚本学院院章(右)
―これだけ大きな規模の大学に成長していった理由、秘密はどこにあると思われますか。
絹谷 多分、この関西という土地柄は、やっぱり信心が篤いということだと思いますよ。いろんな場所に仏様や神様がいるということですね。仏様や神様の世界は、信じる世界なのですよ。あるいはイメージの世界。こういう下地があります。芸術というのはそういう世界に近い。ただ「儲かりまっか」だけの世界ではない。いわゆる心を通わす世界というか、あるいは心を遊ばせる世界というか、そういう世界が歴史的に積み上げられてきているのです。特に大阪芸大の立地しているのは、聖徳太子のお墓のある南河内郡太子町から天王寺の方へすうっと、トンネル越えないでも出て来れる道筋なんですね。堺にも行ける。ですから立地そのものが、堺という港が中国や東南アジアに門戸を開いていた。そういう点がいまの国際交流とつながっているんですよ。そして行基菩薩が河内のあの辺で橋を架けたりしていた。どちらかというと無頼の坊さんなんですが、それが人を集めて橋をかけたりしていたのが、大仏寄進につながっていく。心の世界というか、芸術の世界、あるいは音楽の世界なのですね。そういうものがもともと張り付いている、ちょうどそのとば口。竹内街道が下りてきている、聖徳太子が四天王寺を造った。あれは高台をずっとつないで歩いて行くと、あそこへ着く。高台をつないで行くと、堺へ行く。つまり泥縄のようなところをずぶずぶと入らなくても行ける、台地の縁のつながっているところなんですね。大阪、あるいは京都も奈良もそうなんですけれども、この一帯には昔からそういう芸術や仏を尊ぶ素地があるといえます。この芸術大学がこれだけ大きくなった下地があったと思います。
塚本 何で大きくなったかというと、それは真面目にやってきたからですよ(笑)。もともと戦後、英語教育から始まっている学校なのですけれども、やっぱりニーズですね。その当時の英語は、アメリカ軍が入ってきて英語の通訳とか需要が伸びて、英語の教育をしなければいけないというので初代が作ったのですね。戦後、戦争で荒廃した芸術を復興しようと思って立ち上げられたのが大阪美術学校です。芸術大学へ進んで行ったのですけども、そのときからの建学の精神があるわけですから、それを真面目に何十年もやってくると大きくなった、という結果なんじゃないでしょうか。
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