リアルさの架橋 国立国際美術館のふたつの企画展 : 光田ゆり

2012年11月16日 14:25 カテゴリ:エッセイ

リアルさの架橋

国立国際美術館のふたつの企画展

光田ゆり (美術評論)

 

国立国際美術館で、企画展示階の「リアル・ジャパネスク―世界の中の日本現代美術」、常設展示階の「〈私〉の解体へ:柏原えつとむの場合」の、ふたつの企画展が開かれた。前者は1970年代、80年代生まれの日本の作家9名を、独立した部屋を連続させて見せる。絵画を中心に、ビデオ、インスタレーションも大がかりな、新作・近作による展覧会である。後者は柏原えつとむ(1941年神戸生まれ)の1968~75年頃の4つの連作を個別の部屋に展開し、当時の仕事を集中的に見せる初めての機会となった。『美術手帖』誌や『美術史評』誌などの記事からその概要は知っていたが、全容がつぶさに体験できる意義は大きい。

 

色々な意味で対照的なので、両者が一層刺激的に感じられる。半世紀近い時をへだて、日本の「現代美術」はどう動いたといえるのか、考えさせられる。

 

柏原の《Mr.Xとは何か?》(1968~69年)は小泉博夫・前川欣三との共同制作で、三人から抽出し混交した架空の人格Xからの指令を仮構し、指示どおりに作られた三人の作の微妙な差異が展覧される。もちろん「主体」への懐疑を分析し尽くそうという実験である。そう理解していても、その緻密な分析や操作の一切を展示で見れば、すべては几帳面な主体なくしては成り立たないと納得する。原理的に徹底されたすべての操作がにじませる、若々しいロマンティシズムにじかに触れてしまうのだ。

 

大部のカタログに連作の詳細、関連資料ができるかぎり収録されたのは、柏原の資料ファイルの再現をめざしたものだという。学芸員が資料を作家の方から拝借し、それをもとに展覧会やカタログを構成するケースは多いが、資料をまるごと再現するという橋本梓学芸員の方法は斬新で、70年代的なコンセプチユアリズム?さえ感じられた。

 

一方、若手作家たちのクールな大技も、尊敬に値する。広いスペースを使い切った泉太郎のひとりごと的体当たり的ナンセンス、竹川宣彰の原発史への大航海スペクタクル大作、礫刑図を思わせる貴志真生也の仮設工作的迷路は、スクリーンビューでは味わえない、展覧会ならではの醍醐味を味わせてくれる。かろやかに都会的な南川史門の絵画群には顔のない不穏な新作があり、魔術的なイメージをほしいままにしてきた大野智史は逆に絵画面構成に集中してきたよう。佐藤克久と竹﨑和征の絵画論的な絵画逸脱境界線上の実験は、70年代的な原理的な性格を秘めていながら、色彩と筆致の魅力を比較的ちいさな画面で練り上げる方法をとっている。和田真由子のふわっとした手つきは、同じ境界線を汎絵画的に延長するものと見える。諧謔と色感を効かせて日常の物品を異形のものに変えていく五月女哲平のフレームが、より微視的に外界を切り取り始めるのは、もっと幾何学的なもの(原理的なもの?)に純化しようとするからだろうか。

 

柏原が批判対象にした「主体」は、彼らには前提とされない。しかし彼らの多くが明らかに原理的なものを求めているのは、アプローチは違っても、その切実さと純度において、半世紀近く前の実験と共有するものがあるのも確かである。

 

「新美術新聞」2012年10月1日号(第1292号)2面・新美術時評より

 

 


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