肖像と時間
2点の《モナ・リザ》と篠山紀信
光田ゆり(美術評論)
世界で最も有名な肖像画はレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》だろう。10年前の彼女を同じ衣装・同じポーズで描いたというカンバス画が、最近レオナルドの真筆と鑑定されて論議をよんでいる。画家は定点観測を行った、ということだろうか。《モナ・リザ》が2点組の肖像だとしたら、きわめて写真的な―もちろんまだ写真は発明されていない―連続絵画の試みといえるのか、と驚きを感じた。
時間を切断する写真術を使って、1878年にマイブリッジが連続写真の撮影に成功したとき、逆説的に写真は時間を表わす方法にもなり、コマ送りによる動画=映画の基礎ができたことはよく知られている。定点からの複数の像を並べる時、像の違いは時間の推移を示す。1点だけでみる《モナ・リザ》が時間を超越した永遠性を思わせるだけに、2点説はこの有名な絵に違った印象を与えかねない。が考えてみれば、画家の生前から《モナ・リザ》の模写は描かれ続け、あちこちに存在していたのだ。今春の「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展にずらりと並んだ《モナ・リザ》は、この絵画に複数性の歴史があったことをはっきり示していた。デュシャンが複製(写真・製版・印刷)にヒゲとサインを描き入れるとしたら、最もふさわしいのはやはり《モナ・リザ》をおいてない。
《モナ・リザ》が日本に運ばれ、東京国立博物館に展示されたのは1974年。篠山紀信が「激写」を手掛け始めるのはその翌年のことになる。篠山の美術館での初めての個展「写真力」が、全国4か所を巡回中である。
黒、赤、白と部屋ごとに塗り分けた壁面に、4メートルを超す大きさで掲げるポートレートの迫力はすばらしい。きわめて直截で、ぴたりと決まって、ゆるぎがない。篠山写真の強靭な瞬間性はその前後の時間を切り落とし、きっかり凍結するから、別のショットはいらないのである。篠山の1点の肖像写真には、時間が折りたたまれない。逆にいえば、篠山という定点からスターたちを観測するとしても、少なくともこの展示からは、マイブリッジ的な時間性は見えてこない。どの肖像も強くて、華があり、古くなく、新しくも見えない。いわば無時間的に作られてある。
画像をロールで出力して何枚も直接壁に貼り合わせた展示。一部、スチレンボード貼りの小型の作品もあるが、会期終了後、保存されるものはほとんどないだろう。保存の必要がないのは、すべてが常に再生可能な写真、だからである。会場ごとに構成が違うのも、その前提があるからなのだ。
篠山が無数に手掛けてきた雑誌表紙は、時々のエフェメラルのようでいても、実際には保存されて、必ず残る。篠山写真の複数性は、印画紙の枚数では元よりなく、印刷物の複数性のレベルも超えて、どんな場にもいつでも出現できるポテンシャルとしての複数性である。それは《モナ・リザ》的な、いわば「著名力」なしには成立しない性能ではないだろうか。「著名力」と「写真力」がぴたりと重なって、写真は各々1点であっても、圧倒的多数性のオーラが会場を満たした。
「新美術新聞」2012年11月1日号(第1295号)2面・新美術時評より
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