[新美術時評]美術と教育〈4〉青柳正規

2013年05月20日 13:34 カテゴリ:エッセイ

 

形を言葉に、言葉を形に

 

青柳正規(国立西洋美術館館長)

 

筆者近影

筆者近影

古代ローマの言葉に「詩は絵のように」という言葉がある。のちに「詩は絵のように、絵は詩のように」と拡大される考えのもとになった言葉である。また、ギリシャ語には神々の英雄の姿を書きしるすだけでなく絵画や建築を詳細に記述することを「エクフラシス」といった。文学と美術はそれぞれに表現する手段と方法が異なっていても、相互に類似した性格があり、それぞれの特質を理解すればそれぞれの分野がさらに高まるという考えにもとづいている。しかし18世紀になると、詩はいくつもの言葉が時間の経緯にしたがって表現され、そうすることによって物語や情景を描写するのであるから本質的に経時的である。いっぽう絵画は全体を見ることによってすべてを一瞬で理解できるため共時的という性格をもち、両者の性格はおおきく違うという考え方も指摘された。

 

日常生活のなかで美しい夕焼け雲や遠くに見える小島を思い出すことがあっても、その情景を言葉で言い換えることはなかなかない。また、知人の顔を思い出すときわざわざ「二重まぶたで鼻筋が通っており、唇はうすい」と言葉を補うことはなく、記憶のなかの形による知人リストから該当の顔を思い浮かべるだけである。つまり、わたくしたちは自分自身のなかに文学的に働く機能と美術的に働く機能をあわせ持っていながら、その両方を使うことはめったにない。たまにあるとすれば地図を描きながら道順を説明するようなときである。「ここからまっすぐ30メートルほど行き」といいながら直線を引き、「門にあるたばこ屋の先を左に曲がって20メートル進み、郵便ポストの手前を右に曲がって直ぐ右が鈴木さんの家です」と直角に曲がる線を引いて説明する。このときまさに「図は言葉によって」いっそう明らかとなり、「言葉は図によって」さらにわかりやすくなるのである。

 

現在、美術の領域は以前よりもはるかに広くなっており、またファイン・アートもしくは純粋美術と呼ばれる分野の輪郭も曖昧となっている。では美術はいったどのようなものかというなら「形と色による珍しい表現」という程度に考えればいいのではないだろうか(実際はさらに広く考えなければインスタレーションなどを含むことはできない)。一応の定義をこのように設定するなら、この美術的表現をぜひ言葉で言い換える作業を繰り返し、その面白さを経験するしくみができないだろうか。それはほかではなかなか経験しがたいことであり、また、自分自身の表現法をより明確にすると同時に奥行きのあるものにかえていくのではないだろうか。もちろんこのほかにもさまざまなやり方があり、それらを組みあわせることで美術を活用した教育が構想できると思うが、その際も形を言葉に、言葉を形にという異分野交流をぜひともとりいれてほしいものである。

 

「新美術新聞」2013年5月1・11日合併号(第1311号)2面より

 


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