丸木夫妻/池田龍雄/水木しげる
光田ゆり(美術評論)
原爆の図丸木美術館を訪ねると、ゆたかな水流の都幾川が緑をいだく、さわやかな水音を聞くことができる。丸木夫妻が選んだ場所がここなのだと素直に納得できる眺めである。
企画展「福島から広がる視点1 池田龍雄展」を拝見した。福島の原発事故から発想した新作三部作が出品されている。昭和3年辰年生まれの池田先生は、会場の上映ビデオでも、いつも通り青年のような笑顔で自作の解説をされていた。ご自身の戦争の体験も、画面に表わした火や破壊の暴力のイメージも、静かによどみなく語る力のある画家である。
自身のルーツともいえる、特攻隊体験をテーマにした作品からこの展示が始まっているのは、重要なことだろう。作品と並んで、絵の中でモチーフとなった辞世の歌の実物が―1945年の池田青年が板にていねいに墨書したもの―掛かっていたのには、意外性を感じたものの、考えるヒントを与えられたと思えた。作家はまず自分の事実を示し、それを踏まえた作品を示したうえで、福島事故についての思索から生まれた作品を提示していたからである。
当事者性、ということを今軽視できないと自分が思っているために、そこに目が留まったのかもしれない。原発再開は絶対にするべきでないと考える一方で、直接関わる人たちの不利益を無視できないとも思う。多くの「震災写真」が生み出され続けるなかで、そこに住む撮影者、出向いたカメラマン、被災地を故郷とする作家など、個人の立ち位置を抜きにしては撮影も鑑賞もむずかしいはずだ。だが一方で、当事者性の段階区分を明確化することに意味があるとも考えない。
そうしたときに、池田の採った方法は、ちょうど丸木夫妻が原爆の図から始めて、三里塚や反原発のテーマをてがけ、アウシュビッツ、南京大虐殺に取り組んだ大画面を完成させたことに呼応している。当事者として描き始めた作品から、当事者ではない事象への関わり方が開いていくことがあったのだと、広い常設展示室最後の部屋で感じることができた。
池田展の手前の1室では、「幻のルポ&イラストが蘇る 『福島原発の闇』」が開催された。1979年10月の『アサヒグラフ』に、原発労働者として直接原発内部に潜入したフリーライター堀江邦夫の文章と水木しげるの挿図によるルポルタージュが掲載された。忘れられていたそれを、雑誌の拡大複写で紹介する企画だった。内部の撮影はできないため、原発労働の驚くべき実体験を聞いて、水木はこれらの密度濃いペン画を描いたのだろう。無数のパイプに不気味な目を描きこまずにいられなかった水木が強靭な筆力を発揮したのは、従軍体験を思い出す不条理さをそこにみたからだという。何も事故がない時でさえ、これほど危険な作業が人の手でなされなければ維持できない、原発の事実を改めて知ることができた。
「新美術新聞」2012年7月11日号(第1287号)2面より