ポストモダン二題
ポストモダンは、モダンの後、ということで、アートでは近代絵画の規範への疑問が表面化した表現と要約できるだろう。年代的には80年代頃からとするのが一般的だが、ポストモダン的な表現がそれ以前になかった、とするのは早計だ。たとえば、MoMAで回顧展を開催中の女性作家、スターテバントは、60年代からポップ・アートのアプロプリエーション=借用を展開した先駆者だ(2/22まで)。
「ダブル・トラブル」と題された展観は、うっかりするとデュシャンのオブジェやウォーホルのマリリン、ジョーンズの標的など、ポップの展覧会と勘違いするほどの「そっくりさん」のオンパレード。そのテクニックの程は、最初期のそっくり作品であるジョーンズの数字に如実に表れている。
近代の神話、オリジナリティに疑問を呈するわけだが、当時はなかなか理解されず、1974年にいったん画業を中断、ポストモダンのアプロプリエーション全盛の1985年になって活動を再開した。
とはいえ、日本の篠原有司男が同時期に創案した「イミテーション・アート」ならば、本物を知らないで複製写真から複製を試みる二重性があったりするが、スターテバントの場合は、アプロプリエーションの対象との距離は皆無に近い。表現として考えるなら、ストレートなコピーとみなされても仕方なかったかもしれない、と思ったりする。
むしろ、運動分解写真のマイブリッジにならって、自作のリキテンシュタインやジョーンズの前を歩く行為を撮影した写真作品のほうが私には面白い。とくに写真の「写す」という複製機能ではなく、イメージ自体が流通して動くことへの興味は、1998年以降にはじめてビデオ作品ともつながっていく。
同じくMoMAで回顧展「心はメタファーではない」を開催中のロバート・ゴーバーもポストモダンの文脈の作家だ(1/18まで)。
作品が自立、自足するのではなく、社会や歴史との連続の中に存在する、という芸術観、と言えるだろか。初期の洗面台の作品は、80年代半ばのエイズ危機抜きには語れない。蛇口や排水パイプのない機能を剥奪された洗面台は、無菌の不可能性を暗示する。
オブジェにくわえて、人間の足がレパートリーに加わるのが1989年。向こう脛の半ばあたりから切断された足が奇妙に壁から突き出してくる。ご丁寧にズボンに靴下、靴まではいている足は、すべて手作り。作ることへのこだわりもゴーバーの特徴だ。
単発のシュールな光景が、やがてインスタレーションレーションへと拡大。回顧展の目玉は、1992年にチェルシーのディアセンターで公開された3つの部屋―控えの間、メインのギャラリー、奥の間―をアトリウムの空間を利用して再現したことだろう。塗り絵技法で描かれた森の壁画を背景に鉄格子のはまった監獄の窓と水が流れっ放しの洗面台を配し、実話や架空のニュースを印刷した新聞の束、ネズミ用毒薬の箱を置いた環境は不気味なナラティブを力技で見せてくれた。
(富井玲子)