三谷吾一—95歳になった現在も、沈金の持つ表現の可能性を追求

2015年02月10日 18:16 カテゴリ:北陸×ART×KOGEI

 
北陸の工芸
 
陶芸 三谷吾一
 
日本有数の漆器の産地である輪島の塗師の家庭に生まれ育ち、幼い頃から各工程の職人たちに接してきた三谷は、14歳で沈金師の蕨舞洲(わらびぶしゅう)に師事した。沈金とは漆面に刃物等で文様を彫り、そこに金箔、金粉を詰める漆の装飾技法の一つで、三谷は当時の厳格な徒弟制度のもと、輪島沈金の基礎を5年間学んだ。一方で、画家になる夢も持っていた三谷は、舞洲とは兄弟弟子関係にあり創作活動を展開する前大峰の仕事に触発され、大峰のもとでさらに3年間修行、22歳で沈金職人として独立した。
 
伝統を重んじる厳格な職人と、創作の枠を広げていく漆作家の二人に師事したことは、のちの三谷の創作活動の大きな礎となった。
 
「クレーが好きでね。いずれは漆を使って絵画と堂々と渡り合えるような作品を作ってみようと思っていました」
 
しかし、絵画のような表現をするには、漆の技法は制約が多い。技術が身に付いていなければ表現できないが、技術にばかりとらわれていると前に進めない。アイデアがあって、それを表現するためにはどんな技術が必要かと模索し、今までの技術では表現できないと行き詰まった時に、素材や技法を工夫して新しい技術が生まれる。三谷はその過程を繰り返していった。
 
1942年に新文展初入選。しかしその後は思うような結果が出せず、革新的創作者の定めのように貧乏も味わった。
 
「女房が励ましてくれるんですよ。それでも頑張れって。助かりました」
 
転機は1965年に訪れる。日本現代工芸美術展で現代工芸大賞・読売新聞社賞を受賞、翌年には日展で特選北斗賞に選ばれた。その後は、着々と実績を積みながら独自の道を進み、輪島沈金の表現の幅を広げるだけではなく、パール粉、エルジー粉、プラチナ箔などの新素材を加え、単色で表現されていた沈金技法に、様々な色彩を取り入れ、その独特な中間色での表現は従来の沈金とは一線を画し、「三谷沈金」を呼ばれるようになった。
 
95歳になった現在も、沈金の持つ表現の可能性を追求し続けている。進化は止まらない。
 
「新しいもの、新しいものをと思いながらやってます」
 
 
 
【関連リンク】
⇒代表作家インタビュー 大樋年朗(陶芸)
⇒代表作家インタビュー 吉田美統(陶芸)
⇒代表作家インタビュー 武腰敏昭(陶芸)
⇒代表作家インタビュー 小森邦衞(漆芸)
 

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