一、江戸時代の工芸 工人の招聘と御細工所(おさいくしょ)
金沢を中心とする石川県の各地域には、多くの工芸が見事に育まれており、東京や京都と並んで、日本を代表する工芸の盛んな土地柄として知られている。能登半島の輪島塗のように、中世以来物作りを行っている地域もあるが、大部分の工芸は、江戸時代に石川の地を支配した前田家加賀藩の文化施策により、今日のような姿に発展して来たということが出来る。
前田家は、初代の利家以来、歴代藩主が茶の湯を通して文化事業に深い関心を寄せているが、なかでも三代藩主の利常は、傑出した文化大名であった。利常の在世した江戸時代初期の寛永年代は、幕藩体制が確立し、政治的には安定の時代に入るが、徳川政権にとって気になったのは、外様の大名で百万石の財力を有し、家康とライバル関係にあった前田家の存在であった。そこで二代将軍秀忠の娘「珠」を利常夫人として送り、政治的な外威圧力を加えたが、珠の姉「和」が後水尾天皇の女御であった関係から、利常の周辺には京都の寛永文化で活躍した公卿や文化人たちの存在があった。利常はこれらの人々から深い影響を受け、格調高い内外の文物収集や、美術工芸の育成を行っている。
加賀藩には、二代の利長時代の頃から、武器や武具を管理修復するための「御細工所」という組織があったが、利常はそれを前田家の調度を制作修復する工房へと、内容の転換を行っている。物作りを行うためには、高度な技を持った指導者が必要であるとし、主として京都から多くの名工たちを、「御細工人」の指導者として招き、とくに漆工芸の蒔絵や金工の象嵌技術の育成に力を注いでいる。
加賀藩の御細工所は、五代の綱紀の時代に入って組織的にも内容的にも整備され、全国的に見ても稀な藩営工芸工房として完成され、その後さらに充実されて江戸時代末期まで続いている。ちなみに江戸後期文政11・1828年の状況を見てみると、細工の種類は24種類あって、工芸のすべての分野を網羅しており、正規の御細工人のみでも72名、それに御細工奉行などの役人と、御細工人見習などを含めると百人を越える大組織であった。しかしこれでも、加賀友禅の源流である加賀染や、前田家の茶道と対応した大樋焼や茶の湯の釜は、個人工房を指定して制作されている。
利常の三男で、加賀藩より分藩独立した大聖寺藩では、初代の利治が、父利常の指導を受けて本州では最初の色絵磁器を完成し、この頃の色絵磁器は古九谷と呼ばれて高く評価され、その後の九谷焼生産に強い影響を与えている。金沢城下以外の輪島塗を始めとする各種の地場の工芸品産業も、御細工所の技術的指導を受け急速な成長を遂げており、加賀藩の文化施策を抜きに語ることは出来ない。
二、明治・大正・昭和前期の工芸
加賀藩の文化政策の重要な役割として発展してきた加賀藩の工芸は、藩制の崩壊によって痛手を受けたが、江戸時代を通じて確立してきた見事な工芸の風土を失ってはならないとし、その復興が早速計られた。失業した御細工人の救済と工芸技術の保存を目的として開拓所が設置され、以後、金沢区方勧業場、石川県勧業場と名称を変えながらも、加賀蒔絵、加賀象嵌、加賀染、九谷焼などの特産工芸品の保護育成に当っている。そして当時国策としてとられていた殖産興業の施策にのっとり、生産された工芸品を西欧で開催されていた万国博覧会に出品し大成功をおさめ、なかでも金沢の銅器会社の象嵌銅器と加賀南部寺井地域の九谷焼は、日本を代表する工芸品として世界に知られるようになった。
こうした状況のなかにあって石川県は、物作りには優れた人材が必要であるとし、明治20・1887年に中等教育では日本で最初の金沢工業学校を設置している。当時の教師たちの顔ぶれを見てみると、明治期工芸界をリードした作家たちの名前が見え、今日の美術大学を思わせる陣容であった。
大正から昭和の前期にかけての工芸活動は、殖産興業的な状況から次第に脱却し、工芸美術的な制作を中心とする作家活動が見られるようになってきた。それは明治後期から大正期にかけて、金沢工業学校を卒業した人たちの中から工芸作家が育ちはじめたからである。そうした影響を受けて、殖産興業に従事する工芸職人の間からも、作家的意識を持つ人びとが生まれてきた。
昭和2・1927年、帝展の第8回展から新たに工芸部門が加えられると、石川県の工芸はまさに飛躍する一大チャンスとなった。ちなみに第9回展の入選者は、漆芸4名、金工3名、陶芸、木工、染織各1名と全分野にわたり、10回展以降その数は伸び、東京、京都と並んで工芸王国石川県の名前が全国に知られるようになった。この頃の入選者の顔ぶれを見ると、前大峰、木村雨山など、新しい文化財保護制度で出来た重要無形文化財の第一次認定者の名前がすでに見えている。
三、昭和後期~現代の工芸
戦災を免れた石川県は、工芸を中心とする美術活動が、京都と並んで戦後いち早くスタートを切っていることはいうまでもない。
石川県内に在住する美術工芸作家が大同団結した石川県美術文化協会(昭和14・1939年結成)の有志により、昭和21・1946年11月に金沢美術工芸専門学校が設立開校した。戦後の混乱期にこうした学校を設立したことは、地方都市としては快挙であり全国的にも話題を呼んだ。美術専門学校とはせず、美術工芸と工芸の二文字を冠しているところが、工芸王国としての自負心のあらわれであるということが出来る。同校はその後美術工芸短期大学を経て、現在の金沢美術工芸大学となり、昭和54・1979年度から大学院を設置し、工芸作家の育成に大きな役割を果している。
美術工芸大学の開校と並んで見逃すことができないのは、美術文化協会が中心となってすすめた石川県美術館の開設と石川県現代美術展の開催である。美術館は終戦直後の昭和20・1945年10月に開館し、ここで現代美術展の第1回展が開催され、18日間の会期で入場者が4万人を越えて全国的にも注目された。こうしたことが作家の刺激となり。昭和25・1950年の第6回日展の工芸部門では石川県の入選者が20パーセントを越え、工芸石川の名を高め、以後受賞作家や審査員を中央に送り出すことにつながっていった。
このように戦後の石川県の工芸活動は、戦前の官展としての帝展とその延長線上にある戦後の日展を舞台に進められてきたが、周知のとおり日展の工芸は、戦後の自由な思想の影響をうけて造型美術へと変化して行ったため、日本の伝統的な工芸の概念を守り継ごうとする人たちによって、日本工芸会が設立された。日本工芸会の設立発起人の一人に、金沢出身の松田権六がいた関係から、石川県の工芸作家たちも日本工芸会に所属する動きが現われ始めてきた。そして第10回の日本伝統工芸展の巡回展が金沢で初めて開催され、今日まで続いて行われるようになると、日展の工芸美術に相対するほどの活躍が見られるようになり、この二つの団体を中心に今日の石川県の工芸活動が展開されている。
ちなみに松田権六のような石川県出身者と故人を含めると、文化勲章受章者4名(内県内在住の現存者1名、以下同じ)、日本芸術院会員2名(2名)、重要無形文化財保持者個人22名(10名)、団体1(1)となっており、まさに工芸王国の名をほしいままにし、石川県の工芸技術の水準がいかに高いかを知ることが出来る。
こうした工芸作家たちが活躍する母胎は、江戸時代にほぼ完成した地場の工芸品産業の世界である。今日その種類は37種の多きに達するが、そのうち通産大臣の指定を受けている工芸品は10種を数えている。このようにこの地で育まれてきた工芸の世界は、その種類と技術の高さにおいては、日本で有数のものがあるが、伝統の積み重ねによって完成されてきただけに、ややもすると伝統の枠や型に圧倒されて、現代的感性に基づく新鮮な工芸作品を生みにくい風土を有している。
そこで石川県では、昭和42・1967年に文部省の助成をえて、能登の輪島に漆芸技術研修所を設置し、漆芸の全分野にわたっての技術伝承者養成事業を開始し、40年を経た今日、多くの優れた作家、技術者、それに重要無形文化財保持者を世に送り出しており、日本の漆芸技術研修の中心的役割を果すようになってきた。
さらに昭和59・1984年からは、現代の地場の九谷焼の中心地である寺井町(現在の能美市)に九谷焼技術研修所を開設し、九谷焼従事者や作家の育成に乗り出している。また平成9・1997年からは挽物轆轤の技術で日本の頂点に立つ加賀市の山中町に石川県轆轤技術研修所を開設して技術保存と後継者の育成に当っている。
一方金沢市は、平成元・1989年に市制百周年を記念し、市東北部の卯辰山麓に、加賀藩御細工所の物作りの精神を現代に生かした、総合研修機関としての卯辰山工芸工房を開設し、各種工芸技術の保存と育成に努めている。これらの研修機関では、伝統的な工芸技術に磨きをかけると同時に、現代に相応しい形を含めての文様デザインの開発研修が行われている。それには指導者が第一であるとし、各種工芸の重要無形文化財保持者や学識者などが、地元はもとより全国から招聘されて研修生の指導育成に当っており、工芸振興の役割を十分に果すようになってきた。中央での各種工芸展で、石川県の入選者数がトップを占め、受賞者も多いことがそのことを物語っている。こうした各種の研修機関が有機的につながって、今後の石川県工芸のますますの発展が期待されている。
※図版はすべて石川県立美術館蔵