さる7月、ボストン美術館でちょっとした騒動があった。ネットなどで日本でも紹介されていたが、モネの大作油絵《ラ・ジャポネーズ》の展観に関連した催事で、金髪の鬘をかぶったモネ夫人の着ている赤い打掛を再現したキモノの試着が「人種差別的」「帝国主義的」だとして抗議運動がおこり、毎週水曜日の催しをキャンセルした、という事件だ。
文化理論的な背景は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(英語版1978年、和訳1986年)にあり、「東洋趣味」が単に異国への憧憬を示すのではなく、西洋が非西洋(オリエント)を支配し再構成する覇権的思考様式だった、とするポストコロニアリズムの批判的見方にある。
美術における19世紀後半のジャポニズムやシノワズリ(中国趣味)などをオリエンタリズム批判の観点から読み直す試みは学問の世界でも定着している。
こういう視点から、「人種差別的」というスローガンのもと、他民族の文化を見世物扱いするのはいかがなものか、という、いささか短絡的な批判につながった、というわけだ。
ボストン美術館の側にも問題はあった。見世物による観客サービスが先行して、オリエンタリズムの問題点どころか、最初は作品の意味(モネは日本趣味の大流行の揶揄も意図していた)や日本の着物文化の解説すらなかった、という。こうした教育面を補充し、くだんの打掛を「試着」するのではなく、手で触わったりして実感してもらう形に軌道修正してプログラムは継続された。
この事件は、JAHF(日本美術史フォーラム)という専門家のメーリングリストでも話題になったが、現代美術の立場からは、19世紀後半の意識構造を解析したオリエンタリズムの意義は理解するものの、これを教条的に21世紀に適用できるのか、という疑問も呈された。たとえば…
・オタク文化の立ち位置で着物を応用したコスプレはどう考えるか(http://goo.gl/D7yuq0)。
・アフリカ美学を着物に応用したデザインはどうするのか(http://goo.gl/8wZUWf)。
いわば、現代美術や文化の状況、つまりアプロプリエーション(借用、流用)が日常茶飯事のポストモダンの時代、グローバル化の時代に、着物が日本文化の一部としてよりも、グローバルな文化の共有資源として流通している、という事実は、オリエンタリズム的文化史観では捉えきれないのではないか、という疑問である(なお、この二つの例は着物を正当に理解した上で応用している点で興味深かった)。
メーリングリストで、この疑問を呈したテルアビブ大学講師のアイレット・ゾーハーは、特定の文化的コンテクストに「固定した意味」と、そこから派生して「流動的に拡大解釈していく意味」の二通りがある、と指摘。ボストン美術館では、この二つが衝突して問題になったのだろう、と結論した。
いずれにせよ、美術館の見世物化は、メトロポリタン美術館で開催中の「鏡の国の中国」展のように大々的に服飾デザイン、映画、美術をミックスした展観にも如実に表れている(9/7まで)。
だからこそ、ボストン美術館の企画は、解説なども最初から完備していれば、イメージ先行にブレーキをかけてリアルを知る一つの機会になりえたはずだったのに、と残念に思う。