銀座からの移転-これからを考える良い時間に
初の著作『知識ゼロからの名画入門』、「モナ・リザ」や「ゲルニカ」はいくらか?
-1973年の創業以来、銀座、青山、銀座と移転をしてきました。
永井 父のはじめた最初が、銀座7丁目でした。澁谷画廊のあるビルの6階です。当時、私はまだ高校生の頃。大学卒業後に会社員を経て、永井画廊に入社しています。その後、1996年に青山へ移転しました。青山時代のメインが千住博さんです。1995年にオリジナル版画「森の朝」「森の夜」(直接、石版に描いて頂きました)を刊行して以来、2年に1度は企画展も開催しています。
-軽井沢千住博美術館の開設にあたっても、協力をされていましたね。
永井 2006年の美術館計画の発足から、開館した2011年の3月まで館長職を拝命し、作品収集、美術館の建設予定地選定など、幅広くお手伝いをしてきました。公益財団法人国際文化カレッジの関連法人であるユーキャンとは2000年から公募展審査員などでご縁があり、2008年から関連の銀座4丁目ビルを紹介していただきました。銀座から青山は、経済的な理由もありましたが、青山から銀座はユーキャンとの深い関係からの展開です。ですから今回のビル売却というオーナーの意向を尊重し、銀座撤退を決断しました。
-現在は、恒常的な展示スペースをお持ちではありません。
永井 今後は、企画展に応じた展示スペースの確保など、柔軟な対応を考えています。5月に銀座三越で開催した「百花繚乱-百人のバラ展」もひとつの形ですね。まずはお客様をご案内できる赤坂のオフィスを確保し、仕事をしていきます。いまは目先に追われずに広い視野でいい企画ができそうです。
-画廊の連絡先や、「公募-日本の絵画-」の事務局は、雑誌『ソトコト』などで知られる木楽舎になっています。なぜでしょうか。
永井 赤坂オフィスでは対応しきれない点を、お願いしています。木楽舎さんは、銀座の永井画廊で開いた「フェルメール 光の王国展」や「銀座『春画』展」でも協力してきまして、そういったご縁もあり、協力をお願いしました。
-この1月には初の著書となる『知識ゼロからの名画入門』(幻冬舎)が刊行されました。特に話題となったのは、「モナ・リザ」などに評価額をつけたことです。
永井 専門家による名画の本はたくさんありますが、画商の視点から見た本を作りたいと思っていました。特に伝えたかったことは、画商たちの力についてです。いかに「名画」が誕生するかといえば、作家の実力はもちろんのこと、サポートする人たちの力も原動力となります。印象派を支えたポール・デュラン=リュエルやピカソと50年契約を結んだカーンワイラーなど縁の下の画商たちがいたからこそ、いま私たちは名画を享受できるということも知って頂きたかった。
-冒頭では、「人の手になるあらゆるものに使用価値と交換価値があるという資本主義の経済原則に則ると、名画にも値段がついてしかるべき」と書かれていますね。
永井 担当編集者に「鑑定団的に値段を」とお願いされていましたが、美術館収蔵品や国宝級のものが美術市場に出ることはないので、評価額を入れることは最後まで悩みました。ただ、資本主義経済を前提にすると、名画だけが例外になることに違和感があり、読者は鑑定団的な感覚で本書を手にとるだろうとも考え、思いきって値段をつけました。また、「新美術新聞」でも「美術市場レーダー」など連載していた瀬木慎一氏による社会経済学からの美術論も参考にさせて頂きました。
-再び展示スペースをもつということも、考えにはあるのでしょうか。
永井 展覧会の企画構想も多くあり、様々な考えがあります。内容や規模に応じていろいろなスペースで対応していくということも面白いかもしれません。ただ企画展で芸術と経済を合致させることは、いまの日本の美術市場を考えると非常に厳しい。ある意味、企画者の理想と経済という現実を串刺しにするコンダクター(指揮者)のような存在を目指す必要があるかもしれません。
-前例のない、難しい試みにも思えます。
永井 でも、今のあり方は、なかなか面白いと感じています。テレビには出ているが、常設展示スペースがない「謎の画商」です(笑)。フレキシブルにいまの立場を活かして、新しい画廊のあり方を探っていきます。その時、日本画、洋画、現代アートという枠組ではない、「日本の絵画」という見方もより大切になってくるのではないでしょうか。いろいろな展開が考えられそうですよ。
問合せは、永井画廊の公式ホームページまで