英語圏で日本の戦後美術の話をすると、会話の中で相手が「地雷」を踏んだな、と感じることがある。
たとえば1960年代日本で前衛作家は作品が売れなかった、と話したことがある。即座にニューヨーク在住のアメリカ人画家が「前衛作家が売れないのはアメリカでも同じ」と返してきた。それはそうなのだが、商業画廊の状況をにらんで考えれば、NYには「作品が売れる可能性」は存在している。それは現代美術の画廊市場が拡大しつつあった60年代でも、グローバルにコンテンポラリー・アートが市場化している現在でも共通する。
ただし、競争は熾烈で、作品がいいだけでは、市場で認められるとは限らない。人脈や運なども大いに関係してくる。超有名になり何万ドルもの値段で個展開催前から完売してしまう作家もいれば、糊口の極貧画家まで、作家の経済状況は格差が大きい。
対して、日本画や洋画はさておくとして、60年代日本では、現代美術専門の商業画廊は片手で数えられるほどで、まだまだ市場は小さかったし需要も微弱だった。そこがまず60年代におけるNYと東京の違いだった。
これを認識していないと、現代美術の展開に重要な役割を果たした「貸画廊」の意義などとうてい理解できないことになる。
「地雷」とは、そんなローカル状況の違いから生まれる誤解に他ならない。ただし、厄介なのは、日本人でも歴史認識の多寡で地雷を踏みかねないことだ。
こうして「地雷除去」も、60年代日本を専門とする美術史家の重要作業の一つとなる。
過日、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻加治屋健司研究室の主催で開催していただいた文化庁長官表彰記念講演会では、有数の地雷である「貸画廊」について講演した(開催詳細はtinyurl.com/y57fvlc9、講演録画はtinyurl.com/y2pgm3xxで視聴可)。
英語の講演ではローカルな個別論は感謝されこそすれ、議論にならないきらいがある。最近はマクロな大枠を話すことも多かった。
今回は、大枠を踏まえたうえで、個別論に心がけた甲斐あって、ディスカッサントやコメントに迎えた神戸大学の池上裕子(以下敬称略)、東京文化財研究所の橘川英規、文書資料研究家の宮田有香、さらには司会の加治屋健司や参加者からも質問が多々出て非常に有意義だった。英語圏での講演ではあまり経験できない質疑応答の「延長戦」はスリリングで、講演終了後もメールの討議が続いた。
貸画廊の例として紹介した内科画廊は短命(1963-67年)にもかかわらず、画廊主宮田国男の実験精神を反映して、ハイレッド・センタ―の《大パノラマ展》をはじめとするコンセプチュアルな名作群、また篠原有司男の活躍舞台となるなど、現代美術家の拠点だった。今回の私自身の収穫は、現在グローバルに評価されている草月アート・センターに比肩する重要性が内科にはあった、という認識だ。これは、日本語で考えたからこそ思い当たったもので、言語力のみならず、思考力もバイリンガルでなければだめだと、あらためて確認させられた。
≫ 富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] アーカイブ