2021年夏の東京オリンピックも終わり、パラリンピックも終わろうとしている(9月2日現在)。コロナ禍は依然としてどうなるか分からない。今年の夏ほどひどい夏はなかったのではないであろうか。酷暑とコロナ禍、外出はままならず、マスクでの炎天下は想像に余る。
その中でさまざまな問題を孕みながらも行われ、もう数日で終わるパラリンピックの様子を見ても、今夏の2つのスポーツの祭典は大過なく終了し、大変な状況下での開催は成功したといえるのではないか。
異論も反論も多々あるのは承知しているが、逆に言えばこのコロナ禍で開催をして無事に終了させるのはやはり偉業だと言いたい、日本社会とそこの住民に対して。この平和と安定した社会あっての成果である。私は各国から集まった選手たちのスポーツに対する熱意と誠意をテレビ観戦しながら感じるうち、やはりオリンピックが開催されてよかったと思うようになった。
それにパラリンピックである。実はこちらの方にもさらに熱意と誠意をしっかりと感じ素晴しいと感嘆している。
ただ私が以前から疑問に思うのは、2つの大会は少し時期をずらして行われているが、どうして同じ時期に行われないのか。確かロシアがソチで開催した大会ではオリンピックが終わった後でクリミア紛争が始まり、パラリンピックが満足に開催されなかった。以前スイスから来たパラリンピック組織本部の人たちにお会いしたときこのことを言ったのだが、苦笑されるだけであった。
組織運営上の問題などあろうが、2つの競技大会を分けることには疑問が残る。いずれも人間の身体と精神の限界に挑戦するが、両方をうまく配して同じ期間に見せてくれればその可能性がより鮮明に認識できる。例えばオリンピックの種目であるバレーボールは選手たちが跳躍して球を追い打ち返すところに妙味がある球技だが、パラリンピックにはシッティング・バレーボールがあり、これは足に障がいのある選手たちが床に座る姿勢で行うバレーボールである。批判されるのを承知で言えば、この2つの競技を続けて観戦することで私たちは人間の可能性に対しより深い認識を持ち、感動することになるのではないか。
パラリンピックには興味深い多くの競技があり、いわゆる健常者の競技種目と重ねて観戦することで、私たちは人間存在の深い意味とそのかけがえのなさを知ることが出来る。外出が制限される中、家の中で観戦する両大会だが、このような感想と感慨を抱いている。
今夏開催されて評判にもなっている展覧会をひとつ。国立新美術館で開催されている「ファッション・イン・ジャパン 1945―2020―流行と社会」である(~9月6日・掲出写真)。
これは東京オリンピック・パラリンピックに合わせて開催される文化の祭典として、「日本博」の一環として企画された展覧会であり、日本のファッション文化の記念すべき展覧会である。
新聞で歴史的と評する展覧会評を見たが、まさにそう言って過言ではない。プロローグの「1920年代―1945年 和装から洋装へ」に始まり8章「未来へ向けられたファッション」まで、各時代の特徴ある代表的な作品を実物で見せる展覧会は、スケールの大きさと内容の豊かさで現代日本のファッション文化の発展と成熟を見せる。同時に視覚によって辿れる現代史でもあり、見終わった後に深い感銘を与えずにはおかない。この展覧会が更なる未来へ向けて日本のファッション文化の充実と発展、国際的な展開へと繋がることを期待したい。
世界に誇る日本のファッション文化であるが、ここに集められた貴重な資料が収まり国内外の多くの人たちに常時見せられる「ファッション美術館」の設立を強く希望する。展覧会を担当した国立新美術館の本橋弥生氏はじめ同館と連携した島根県立石見美術館の方々のご努力に心から敬意を表したい。
そして、アフガニスタンがどうなるのか。バーミヤン仏教文化遺産はどうなるのか。アジアは大きく揺らいでいる。(政策研究大学院大学政策研究所シニア・フェロー)