近年、非白人・非男性の作家たちの見直しが進んでいるが、これまで埋もれていた作家の掘り起こし以上の問題を含んでいる。
そんなことを考え始めたのは、10×10 Photobooksが2018年に出版した『私たちはどう見るか―女性による写真集』(How We See: Photobooks by Women)の編集プロセスを聞いてからだった。全世界から女性の写真集100冊を選んで紹介した企画だったが、まず第一の関門となったのは、必ずしも女性写真家たちが、一般にイメージする「本」としての「写真集」を作っていない、という事実だったという。その原因としては経済的事情もあれば、出版元とのコネの有無もある。
そこで編纂者たちはラジカルな解決策を考えた。写真集の定義自体を拡大して、ポートフォリオやアルバムなども「写真の集積」としての写真「集」と解釈して収録したのだ。
一見すると苦肉の策とも思えるが、こうした「定義」の見直しは私が関係したグローバル・コンセプチュアリズム展も含めて、1990年代以来美術史では着々と進んできていた。
ただし、言うは易く行うは難し。私の場合は「抽象」が鬼門だった。広くオカルトや多次元幾何学などを「精神的なるもの」とみなして「純粋抽象の起源」を考える(当時最先端の)研究をアメリカの大学院で叩きこまれて、それ以外の抽象への偏見が続いていた。
たとえば、2019年にグッゲンハイムが回顧展をして一躍抽象の元祖の一人と認められたヒルマ・アフ・クリントにも「純粋抽象」の観点から当初は躊躇感が強かったものだ。
厄介なのは、見た目だけでは抽象は語れないことだ。アートだから見るのは基本なのだが、抽象に限らず表面のその下の下まで考えた上で歴史化する視点ははずせない。
一つの突破口は、表現媒体の越境性にあった。それに気づいたのは、現在MoMAで開催中の「ゾフィー・トイバー=アルプ―生きている抽象」展だ(~3/12)。
スイスに生まれたトイバー=アルプは、1922年にダダと抽象で知られるジャン・アルプと結婚するが、それ以前から、テキスタイルやビーズ、マリオネットなどのクラフトの分野で斬新な仕事をしていた。テキスタイルでは格子をユニットにして布面を構図化した作品は構成主義と響き合うし、それまでは自然主義的な装飾を軸に作られていたマリオネットに身体の分節を基本にした解釈をほどこし、繋ぎの金具を隠さない構造でダイナミックな動きを表現できるようにする。絵画の平面とは異なる媒体で、キュビストたちやモンドリアンが具象絵画から抽象化の道を歩んだのと並行するかのように、独自の非具象化を進めていたわけだ。
これがダダの方向に針がふれると、1920年の《ダダ頭》のような立体に勘案され、20年代後半にパリに移住して教職から解放され制作に専心できるようになると、積極的に平面や立体で非具象を追求するようになる。
夫のアルプはバイオモフィックな生命性を特徴とするが、トイバー=アルプは曲線を使っていても一種の無機性を保ちつつ運動感覚を内在させた清々しい空間を作り出している。
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