アジア/女性という通路―どこへ?
黒田雷児(福岡アジア美術館学芸課長)
前回に紹介したアジアの女性アーティスト展「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち1984―2012」が開かれている。(前回記事はこちら)。
巡回する沖縄県立美術館、栃木県立美術館、三重県立美術館のなかでアジ美の会場はせまい方なので自館所蔵のものなど展示を断念した作品も多いが、それでも展示室をはみだす物量であり、アジ美ではトリエンナーレ以外では最大級の規模である。初日に行われた7人の出品作家のギャラリー・トークと、イトー・ターリのふたつのパフォーマンスは多くの観衆でにぎわった。私が初めて見た作品も多く、ドキュメンタリー的な作品を含むホールでの上映作品を見るとまた印象が変わるかと思うが、とりあえず思ったこと。
第一。身体的なものや政治的なものと無縁ではない女性性をテーマとすると、造形的にはディープで内容的には難解なものを想像しそうだが(それ自体が偏見だろう)、政治や歴史を直接扱った作品はナリニ・マラニや出光真子を除けば多くはないし、むしろ、ミニマルといってもよい簡潔な造形が目立つ。本欄で紹介したソン・ヒョンスク、ジョン・ジョンヨプとイースギョンの平面作品には韓国特有の単色絵画に近い忘我のミニマリズムがあるし、ニューウェーブの1980年代、和製ポップの2000年代という軽めの時代に登場したと思っていた綿引展子、町田久美の造形もきりつめた緊張感がある。ベトナムのグエン・ティ・チャウ・ザンによる挑戦的なまなざしの女性像も、淡い色彩と絹の素材感のためか、声は封じ込まれる。前述のイトー・ターリ、塩田千春やリン・ティエンミャオなど直接に女性の身体を扱った作品でも、ハードコアなアメリカの女性パフォーマーのような「肉」の露出はなく、皮膚感覚のほうが前面に出る。
第二。以上が女性性の振幅を示すものだとしたら、「アジア」の振幅を示すのは、長期的または半永久的に異国で生活している作家である。発表の機会が多い欧米の大都市に自分の意志で移り住んだ人と、政治的・経済的な苦境を脱するために異郷暮らしを強いられた人とを同等に「ディアスポラ」というのはおかしいとかねがね思ってきた。しかし、路上をさまようピンク色の買い物用ビニール袋に、パリの路上できわどい生活をしながら無視される人びとの存在を重ねあわせたハ・チャヨンの映像作品では、移民という世界史的な現象は、深刻な悲劇なのか些細な日常の違和感なのかわからなくなる。また、アジア内の交流とともに格差が広まる現在では、アジア内移民という重要なテーマが浮上してきている。以前から周縁に生きる人を取材してきたホウ・ルル・シュウズは、台湾に嫁いだベトナム人の生に正面から向き合う。
開会式でのユン・ソクナムのあいさつ。「私たちが普段行ってみることのない道を、芸術という通路を通して行ってみることができるということは、本当に驚くべきことです。」―この「芸術」のところに、「女性」あるいは「アジア」を代入してみよう。さて本展は、見た人をどこに連れて行ってくれるのだろう?
「新美術新聞」2012年9月21日号(第1291号)3面より
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