NYの名古屋3人組という言い方があることを最近知った。1950年代後半から60年代半ばにかけてNYに定住することになった名古屋出身の作家たちだ。到着順に桑山忠明、荒川修作、河原温の3人となる。
これは、なかなかのネーミングだ。
それぞれにNYで独自の表現を展開して国際的な評価を得るにいたった。グローバル化したコンテンポラリー・アートの輝かしい先駆者たちで、その彼らをローカルな「出身地」という視点で歴史に繋留する。私たちの眼はおのずと、彼らの栄光だけではなく、その表現の出自へもいざなわれる。
はからずも、このうち二人の個展が11月に少し重複して展観される。
去る8月20日に享年91歳で他界した桑山は、1958年9月に妻で作家の内藤楽子と共に渡米。東京藝大では日本画の専攻だったが、ミニマルな色面絵画を60年前後という早い時期から手掛けている。
メモリアル展は、その最初期の作品から紹介するが、その当時の桑山を見せてくれるカラー写真がある。
59年撮影で、高さ2メートルはあろうという青を基調とした大作の前においた脚立に腰かけている。作家の服も青で統一されて、まさに感動的な「青の肖像」だ。
画面下方に青い滴りが白い紙(あるいは銀箔)の上に滝のように流れている。布の上に麻紙を貼り、粉絵具を使う日本画手法だったはずで、日本画でも滴るのだろうか。
素朴な質問が心に浮かぶ。そうだ、と思い出して、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのためにしたインタビューをオンラインで確認する。
粉の顔料を膠(にかわ)でなくアクリルで溶く。湿度の低いアメリカでは膠はひびが入るからだ。画面は何重にも日本画のように塗り重ねていくが、粒子感が残る液状の絵具は紙(後には綿布)の織目に引っかかって独特の質感を作るのだと解説がある。滴る絵具はごく薄く溶いた絵具で意図して演出したのだろう。
荒川と言えばデュシャンで、やはりオーラル・ヒストリーのインタビューをしたときには、いくつものデュシャンとのエピソードをお聞きした。
今回の個展では、アメリカの作家たちとの繋がりを考えるエッセイをNYU教授のジュリア・ロビンソンがカタログに寄稿している。たとえば、小野洋子が借りていたチャンバース通112番のロフトを、ロバート・モリスもサブレットしていた事実があり、荒川の作品を背景に二人がスタジオで一緒に写っている写真が紹介されている。二人とも箱を使った作家だけに、今後より深く研究されるべきトピックの一つだろう。
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