昨秋は学会関係の出張が多く、11月にはシアトルのワシントン州立大学で「日本におけるソーシャリー・エンゲージド・アート」というシンポジウムに発表参加した(URLはsites.google.com/a/uw.edu/seajapan/home)。
日本学術振興会の助成を得て3日間にわたり20人以上のアーティストや実践者、研究者やキュレーターが参加したプログラムは、Chim↑Pomや釜ヶ崎芸術大学、フクシマ以後のアートや建築まで包括的な内容だった。
ところで、表題に掲げられたソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)とは何か?直訳すれば「社会に関与するアート」。たとえば、越後妻有トリエンナーレに代表されるような、地元密着型でコミュニティーと協働し、絵画彫刻のような単体の作品が帰結しないプロジェクト形式の表現をさす。
意味をとって、社会性の強いアート、社会実践するアート、と言い換えてもよい。
実は、言葉の定義には深く関わらないでおきたい、というシンポジウム主催者で同大学助教授のジャスティン・ジェスティーの提案にもかかわらず、初日討議でどうしても話題になってしまうほどに新しい言葉である。
2011年に原著出版と同時に和訳の出たパブロ・エルゲラ著『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門― アートが社会と深く関わるための10のポイント』が教科書的存在だ。
だが、言葉は新しくとも、実践のほうはそんなに新しいわけではない。
先に例にあげた越後妻有トリエンナーレは2000年に始まった日本型SEAの元祖的存在だし、90年代から美術館予算の減少ともあいまって数多くの参加型、コミュニティー型の表現が日本で出現した。しかも、その前史として集団活動が盛んで社会介入的行為も目立った60年代美術の歴史がある。
そもそも日本の現代美術の世界では、そういう作品には、日本独自の「アート・プロジェクト」なる用語をあてている(ただし、アメリカの日常会話でart projectといえば、「小学校の図工などの宿題」を意味するから、グローバルな会話は難しい)。
問題は、これほどグローバルが叫ばれる状況にも関わらず、欧米先行で形成されがちな美術史の言説ではパイオニア的存在の日本の実践例が等閑視されていることだろう。
状況を改善するには、作家発表をした田中功起が、いみじくも言い当てたように、英語で発表しなければ勝負できない、のである。そこに、このシンポジウムの意義もあった。
その点で、越後妻有トリエンナーレについての著作をプリンストン建築プレスから英訳出版した北川フラムが基調講演に招聘されていたのは、当然と言えば当然だったが、60年代の政治活動による逮捕歴が原因(らしく)米国入国のビザが給付されず、ビデオメッセージと原稿代読に終わったことは残念だった。ちなみに、12月初頭に英国のセインズベリー日本芸術研究所で開催されたSEAのシンポジウム(goo.gl/L7xdtC)では北川は無事入国、講演をした、ということで、アメリカの険悪な政治状況が露呈した、と言えるだろう。
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