メトロポリタン美術館が近現代美術への特化を喧伝した別館が、ホイットニー旧館にオープンした。この建物は、マンハッタン随一の近代建築のアイコン。設計者マルセル・ブロイヤーの名前を冠して、その名も「METブロイヤー」。美術館のロゴも刷新して、満を持してのオープンである(なお、METブロイヤーは8年契約での借用で、その間にメトロポリタンは使い勝手が悪いと不評の本館近現代ウイングを改築新装の予定)。
MET別館のオープンは、面白い問題をふくんでいる。何より、コンテンポラリー・アートというグローバルな表現領域が、同館のような古典的総合美術館も無視できない地位を社会的に獲得している、という事実がある。
言うまでもなく、これは美術市場の状況を抜きには語れない。アメリカの美術館にとって経済支援に欠かせない富裕層の関心が、市場価値を経由してコンテンポラリー・アートに確実に集中している。だからMETといえども、支援獲得には支援者の見たいものを見せないわけにはいかない。これは財務論であり人情でもあり、どんな美術館でも、コンテンポラリー・アートの収集やプログラムを避けて通れない状況が出現しているのだ。
問題は、では、現代に手薄だった美術館の場合、どのようにその状況に対応するか?
METブロイヤーのオープニング展は、二つの基本方向を示唆している。まず、過去5千年におよぶ収集作品の厚みをいかして、過去と現在をつなぐ企画展。そして、積極的に非西洋の現代美術を紹介していくこと。
前者は、2フロアを使いルネッサンスから現在におよぶ未完成作品をテーマにした「未完―可視化された思考」展(9/4まで)。後者は、インドの画家、ナスリーン・モハメディの回顧展(6/5まで)。
いずれも戦略としては正解だが、アイディアをフルに実現するためには、現代美術理解がまだまだ追いついていない。わたしの持論である「現代美術三位一体論」でいえば、市場と美術館はそろっているが、学術研究が弱い、ということになる。
たとえば、「未完」展。最初のフロアは、ダヴィンチやティチアーノ、レンブラントやターナーからピカソ、ルシアン・フロイドなどの大家を中心に、意図的な中断、たとえば画家あるいはパトロンの死亡に原因する不慮の未完など、制作の核心に迫る展観で、同館ならではの美術史的研究の蓄積を感じさせる。一方、次のフロアはテーマ別で「無限」のセクションに、草間彌生の無限の網、ポロックのドリップ絵画、ゲゴの針金彫刻を並べたりする。しかしながら制作概念としての「無限」や「観者参加」により完成する作品など、説明しなければ分からないものまで「未完」に入れるのは、無理があるだろう。
また、モハメディは堅実なモダニストで、現在のモノクロームやミニマル絵画のグローバルな再発見ブームでは出色の女性作家だ。しかし、同時代のアグネス・マーチンにくらべると作品は小粒。オーソドックスな展示では「小ささ」がめだつから、作品理解を深めた展示が望まれたところだ。
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