偉大な作家と共に歩み、育てられ
岡﨑画廊の代表・岡﨑守一さんは帝展を中心に活躍した洋画家・野口謙蔵(1901~1944)を親戚に持ち、幼い頃から良質の作品に触れて育った。大学を卒業後、71年にフジヰ画廊に入社。時はいわゆる第一次絵画ブームの頃、フジヰ画廊創業者・藤井一雄氏のもと朝から晩まで働きに働いた。
「田舎暮らしだったから、それまでは画廊というと貸画廊のイメージしか無かった。ただ座っていればいいのかななんて思っていたら運転手から雑用係、もちろん販売・納品に至るまで…正に鉄火場だった。まだ住み込みや徒弟制度が残る時代だったから給料も安くてアパートの家賃を払ったら幾らも残らない。入社して半年は毎日辞めたかった」
そのような中でも、一人の時には画集を読み漁り誰よりも熱心に学んだ。顧客もつき、絵を売る面白さを知ると共に顧客に学ぶことも非常に多かったと話す。「物を売るという仕事の中で、何よりも良いお客さんに出会えたことが大きかった。働き始めた当時は、お客さんの方が絵についての知識が豊富で、美術だけでなく文学、哲学など何にでも通じていた。僕はお客さんに育ててもらった」。
1985年、フジヰ画廊を退社し岡﨑画廊を設立する。取り扱い作家の中心は絹谷幸二。岡﨑さんはフジヰ画廊時代に絹谷と出会い、展覧会を担当。藤井氏に仁義を切ったうえで、独立後も絹谷を扱ってきた。「美術への深い造詣、並外れた野心、そして常識外の発想。初めて会ったときから、この人は普通の画家とは違うと思っていた。」
これまで、長年にわたって絹谷の画業を見つめ続けてきた岡﨑さん。イタリアから帰国した若かりし姿も、東京藝大、大阪芸大で若き才能を育てる今の姿も知っている。その口から語られる数々のエピソードは枚挙に暇がないが、どの話にも作家・絹谷幸二への尊敬と信頼の念が満ちている。「僕は、絹谷さんは100人いるものだと解釈している。時代時代によって別の絹谷さんが描いている。昔が悪いとかでは無く、どの時代にも良し悪しがあるが決して元に戻ることはない。貪欲に吸収し、時のめぐりと共に別の絹谷さんになっていく。あのような一世紀に一人と言える作家に出会えたことが、何より幸せだと思う」。絹谷の若かりし時代のアフレスコを前に、岡﨑さんはそう言葉を結んだ。(取材/和田圭介)
岡﨑画廊(東京都中央区銀座6‐9‐4岩崎ビル8階)
☎03‐3575‐4795
【関連リンク】 岡﨑画廊公式ホームページ
「新美術新聞」2012年7月21日号(第1286号)5面より