最近、国内で二つの芸術祭を見た。
最初が「北アルプス国際芸術祭2020-2021」(21年10月2日~11月21日)で、これは長野の信濃大町周辺が舞台である。作品数は少ないものの、印象に残るしっかりした作品が見られた。持田敦子、リー・ホンボーなどが印象的だった。また、前回設置され今でも残っている「目」の作品は、何度見ても秀逸である。トム・ミュラーの滝を見逃したのは残念だ。
もう一つの芸術祭が、「奥能登国際芸術祭2020+」(21年9月4日~11月5日)である。能登半島の東の突端にある半島の町、珠洲市を舞台に展開された芸術祭で、これもコンパクトなスケールの芸術祭。クレア・ヒーリー&ショーン・コーデイロ、カルロス・アモラレス、中谷ミチコ、デイヴィッド・スプリグス、ディラン・カクなどより沢山の作家が印象に残った。
作品が散在する芸術祭では、作品がある程度のスケールや力を持っていないと、道を探してたどり着いた観客の期待に応えることができない。その視点で見ると奥能登の方が、充実していたように思う。
今年は私自身も北九州市の東アジア文化都市の枠組みの中で「北九州未来創造芸術祭 ART for SDGs」という芸術祭を実施した。これは特に環境と社会的多様性の問題に焦点を当てたコンセプトで、屋外の作品も少なくなかったが、コロナウイルス問題の渦中でよく実現できたと思う。
コロナ問題の視点から見ると、大勢の人が集まる芸術祭やブロックバスター型の展覧会が見直された年だった。美術館は閉鎖や企画中止にみまわれて入場者減に呻吟した。しかしメルケル首相が文化芸術関係者に資金援助をするときに為した有名なスピーチ「芸術は人間が生きるための糧である」という宣言は、美術に携わる者に一つの堅固な理念を提供したのではなかろうか。多くの美術関係者は、コロナ禍であってこそ展覧会を公開して、人々の生き得る糧にしたいと考えたのではないだろうか。
ところで欧米のビエンナーレ、トリエンナーレがもととなった芸術祭という展覧会フォーマットは、日本では変容し、いつの間にか夏祭りの様相を呈しているが、私はそれでいいと思っている。欧米のやり方が正しかった時代は終わり、夏祭りのように地域社会に同化して人々の生活を現代のアートが彩るのなら、それは欧米が出来なかったアートの民主化のプロセスかもしれない。
アートの社会における意味は玉虫色である。アートは一般には純粋な美術史や美学的議論の対象だと思われてきたが、別の人から見れば商品であり資産である。地域にとっては、地域経済活性化の仕掛けであり、地域の文化的アイデンティティーのツールである。また開発事業にとっては、他のプロジェクトと差異化するブランディングの道具だろう。国家にとってはパブリックディプロマシーと文化戦略の重要なアイテムでもある。こうしたどの側面も否定することは出来ない。再度かように多様な側面を持つアートであることを認識して、自分はどう付き合っていくか、これは誰のためなのか、もう一度考えるべき時期なのではなかろうか。
22年は、アートにとって、より広く自由な視界が開け、その活動にポジティブな環境が戻ってくることを期待したい。