美術館にとって常設展は大変重要である。
そこへ行けばいつでも好きな作品、懐かしい作品、代表的な名画や傑作に接することが出来る。といって、訪ねる美術館の常設展に多くのものを求めるわけではない。いつもではないが、時々見たいと思う、何か美術館に行ってその作品を見ることによって気持ちが落ち着く、そのような作品が常時存在することに大きな意味がある。
私にとっては上野の国立西洋美術館にある1点、あるいは竹橋の東京国立近代美術館にある1点、それで十分なのだ。いつも見ることが出来る、そう思うことによって何と心が休まるであろうか。
横浜の美術館に2点いつも見たい作品があったのだが、ある時折角行ったのに展示されていなかった。がっかりしたけれど、収蔵する多くの作品があるから当然限られたスペースでは入れ替えがある。先に触れた2つの美術館では見たい作品がいまのところ常設展としていつも展示されてある。見に行く者の勝手なわがままな話かもしれないけれど、常設展のスペースをなるべく広くして美術館の誇る名品を沢山展示しておいてほしいものである。
そこで表題に掲げた「見る展覧会」と「読む展覧会」であるが、この夏に見た2つの展覧会の印象から思ったことである。
1つは国立新美術館で開催された「ルートヴィヒ美術館展」、いま1つは東京国立近代美術館で開催された「ゲルハルト・リヒター展」である。これから述べることはあくまでも私個人の印象・感想なので一般化する気はないが、この2つの展覧会に行った後で感じたことである。
ケルン(コローニュ)のルートヴィヒ美術館には2度ほど行ったことがあるが、実際の話あまりいい印象がない。展示の仕方もそれに建物も魅力がない。それでもケルンに幾度か行ったときに美術館を訪ねたのは幾点か見たい作品があったからである。この美術館に関してはルートヴィヒ夫妻のコレクションからなるものであり、その来歴などについてはカタログで詳しく説明されている。
それで国立新美術館の展覧会を見に行ったのであるが、これは素晴らしい展覧会であった。展示空間も展示の仕方もケルンよりははるかにいい。19世紀末に始まるドイツ・モダニズムから現代にいたる同館所有の作品を全体7部に分けて展示してあり、各部に見ごたえのある作品が順序よく見やすく展示されてある。これは何と言っても「見る展覧会」だ。幾度も往きかえりを繰り返しながら作品を見た。絵画作品だけでなく写真作品も味わいがある。マヤコフスキーやシェーンベルクやコクトーの肖像写真は知られているが、やはり興味深い。見ごたえのある展覧会であった。私の知り合いには3度も国立新美術館に足を運んでこの展覧会を見た人もいる。しかし、あまり見る人がいなかったのも事実で残念である。
近代美術館のリヒター展はずいぶん期待して行ったのであるが、かなり時間をかけてみたにもかかわらずあまり心に強く感じなかった。新聞の紹介批評には「『見る』ことへの真摯な思索」とあったが、この何というか現代を「生きる」アーティストの複雑で多才多能な存在を示すかのような作品の数々を見ていきながら何か期待外れな気持ちを持たざるを得なかったのである。「見る」ことは作者の真摯な思索ではあっても展覧会で作品を見る者にとってはどうなのか。
それが展覧会に行ってから3週間ほど経ったある日、リヒター展のカタログを何気なく手にして開いてみた。カタログに掲載されている作品は展覧会場で見る実作品とは違うし所詮は図録であるが、頁を繰っているうちにだんだん展覧会で見た印象とは異なる作品のリアリティーが感じられてきたのである。もちろん、展覧会で作品を見たという経験があっての感じなのではあるが、何も解説文に説明を受けてというのではなく(というより解説文は読んでいないのに)、あの「アブストラクト・ペインティング」や「ビルケナウ」がある重みで私の身体に迫ってきたのである。
現代アートは一見して分かるようなものではないとは言われるが、いま私が感じていることはその通説とは少し趣を異にする。
展覧会場で「見て」、特に感銘を受けるでもなくどちらかというと期待外れ感で会場を後にして帰り、持ち帰ったカタログを数週間の時間が経過した後で「読む」と見たときの印象とは違った自分にとっての作品のリアリティーが迫ってくる。会場で見たのと同じ作品のカタログ図録でしかないものに接して展覧会会場で「見た」ものが「読む」形で体内に広がる。
「常設展」の作品たちは「見せて」くれる。それに対して「読む展覧会」もありうるのではないか。当然だよ、と言われるかもしれないが、「観る者」としての立場からの私にとっては何か新しい経験ではあった。
(政策研究大学院大学政策研究所シニア・フェロー)