シビアなものを求め 必死に自分を探すこと
澄川喜一 (彫刻家、文化功労者、東京藝術大学名誉教授、新制作協会会員)
学校というところは、何かを教えてもらえる処ですが、本当のところは自分自身が学ぶ意欲がなければ、何も身にならない処です。東京藝大の恩師であった平櫛田中先生、菊池一雄先生はともに「藝大というところは、やろうと思えば、どこまでも深く深く学べる処である。手をひろげているだけでは、誰も面倒をみてくれない」と仰っていました。また、「藝術とは教えたり教えられたりするものではない、自分で学び取るもの」との平櫛先生のお言葉は今でも心に残っています。知識はもちろん必要だけれど、理屈ではない感性教育、つまりは真剣勝負の道場なんです。
例えばアトリエで同じテーマで制作をしていれば、剣道の試合をやっているようなものです。モデルを対象に人物像をつくれば、隣の学生の良い部分をみているだけで勉強になる。ですから共同のアトリエで制作することは、互いに自分の裸を見せている訳です。駄目な自分が一番分かってしまう、彫刻は大きいから隠せないですからね。人の振りみて我が振り直せというけれど、4年も共にやると負けちゃおれんと、では真似をすれば出来るかといえば出来ないんです。そう考えると厳しいところですが、これこそが本当の切磋琢磨なんです。
私が藝大彫刻科に進学を希望したきっかけは、山口県の岩国で中学1年生の時、錦帯橋に出合ったことから、五重塔や東大寺など木造建築にあこがれ、調べ始めたことにあります。学校では教えてくれないことでしたから、自分で調べて、いろいろ発見出来たことはとても嬉しいことで、自信になりましたね。美術の勉強は大学に入ってから始めるというのも良いけれど、私の場合は古代の木造に魅力を感じ、彫刻志望の下地が出来たのだと思います。
今は藝大に入ることだけが目的になっているようですが、私たちの時代は、先ずどんな先生がおられるのかを受験前に調べました。武蔵美には清水多嘉示先生、藝大には平櫛田中先生がおられ、私は平櫛教室を受験しました。入学式では「このなかから一人か二人がアーティストになれば良い」。卒業式でも「今渡した卒業証書は紙切れだよ」と言われた時代です。そして「自らアトリエを建て彫刻をつくらなければ食ってはいけない」とも言われました。ただ一人で閉じ篭るだけでは駄目ですし、自らが動いて理解者を得る努力もしなければ、待っているだけでは、誰も支援はしてくれませんからね。特に彫刻は大変です。
教育とは「教え」、「育む」ことです。つまり周りが育んでくれるような自分をつくらなければならない。その一つが公募展だと思います。我々の時代は公募展しか卒業後の発表の場がなかったんです。公募展は審査があるから厳しいですが、入選すると、そういう厳しい社会で苦しみ続けている人の間に入れる訳です。今の若い人たちがほとんど公募展に出品しないのは、公募展の魅力云々ではなく、審査があるから公募展に出さないのではないか。学校を出ても、すぐには食べられません、皆ばらばらになるから仲間はいません、という時に公募展に出すと、年に1回ですが、研究の成果を皆がみてくれる。その代わり落選しても入選しても懇親会などで、何か繋がりが出来る。それが一番大切で、学校を出てからの役割が公募展にあるんです。公募展は日本独自のものですが、公募展という大勢のなかに切り込んで行くと異なる友が広がります。
昔は画廊もなければお金もない。作家仲間に批評されることが一番厳しいことですから。今はそういうことは避けて、流行の作品を作って、お金を出して画廊でグループ展をやりますね。それはある種の学芸会なんです。癒し仲間しかこないから、批評したい、本当に見たい、という人は来ない。そうすると、自己満足になってしまうんです。
本来、落ちてもそこから、よし次は、という思いがなければ、進まない、続かないですね。公募展に出している人は、年1回は自分を世の中にさらす、ということをやっている訳です。私たちの時代はよりシビアなものを求めていたんです。「安易に時の流行に乗るな、そして人の真似をするな」と言われていました。作品を発表することは今でも、恥ずかしさや緊張があります。だからこそ、必死に自分を探さなければならないのです。
「新美術新聞」2013年5月21日号(第1312号)2面より