香港アジア・ソサエティーの登場
南條史生 (森美術館館長)
以前アジア通信と題して、本紙にアジアの話題を2005年から2009年までの4年間連載し、最後にそれをまとめて一冊の本にした(『疾走するアジア』2010年3月 美術年鑑社刊)。
アジアのことはそれで一段落と思っていたが、アジアはさらにそれより先へと動いている。再度、本紙への連載を頼まれ、もう一度アジアの事象を書き記してみようという思いが湧いてきたので筆を執ることにした。
今回は、私事にわたるが、今年1月に香港でデザインの展覧会を開催したことから話を始めたい。この展覧会は、香港に出来たばかりのアジア・ソサエティー(2010年の開館)から、香港のクリエーターによるデザイン展のキュレーションをやって欲しいという依頼がきたところから始まった。私はすでにそれ以前に、別の非営利団体・香港アートセンターで、二つの展覧会を実施していた。それらの展覧会では、日本の建築家・伊東豊雄や、香港のファッションデザイナー、シンチン・ロー(Lo Sing-chin)、中国の若手女性建築家ジョディー・フなどを現代美術とともに展示したことがある。それが理由でこの話が来たのだろう。
そこで、香港のデザインの専門家エミー・チョウがパートナーになるという条件で、一緒にやることにした。タイトルはImminent Domain (緊急の領域)とした。
さてこの母体になったアジア・ソサエティーのことが重要である。数年前に本拠地であるニューヨークのアジア・ソサエティーのディレクター・ヴィシャカ・デサイがアジア各都市にアジア・センターを作る構想を宣言したときに、その対象都市はソウル、上海、香港、ムンバイであった。
私は、驚いて東京は?ときいたところ、彼女は、東京はもう必要ないでしょ、といった。それは、日本は文化交流、国際化、近代化の先頭を走った国であると評価していると同時に、日本を対象に入れる緊急性はいまや、もうないと言っているようにも感じられた。
さて香港にはすでに1990年から、アジア・ソサエティーの香港支部は存在していた。しかし上述のようにアメリカ本部の肝いりで、大型の文化センターとして開館したのは、結局2010年となった。金銭的な支援は本部からは来ていない。結果的に香港の非営利団体として地元の民間の支援を得て運営されている。さて日本でこのようなシステムが成立するだろうか。
アジア・ソサエティーの建物は、もともとイギリス軍が使っていた傾斜地の弾薬庫である。古い建物をできる限り原形を残しつつ、展示室や講演会場に改築し、さらに手前に現代建築の本部を建てて、主要な機能を集約し、そこから空中を渡る二階建ての橋で旧建築物群へと繋いでいる。この橋がドラマチックで見物である。
今後ここで様々な展覧会、講演会、公演、文化イヴェント等が開催されることになるだろう。
香港は今、急速に文化に対する期待が集まっている、それはカオルーン・ウエストと呼ばれる40ヘクタール(六本木ヒルズの4倍)の大型文化ゾーンが2015年以後に登場することが見えているからだ。そこにはM+〈エム・プラス〉と呼ばれる大型美術館の他、オペラ劇場、オフィス群、そして商業エリアが登場し、商業的なイメージしかなかった香港が初めて文化のハブになろうという意志を見せている。
今後、香港から目が離せないということになるだろう。
「新美術新聞」2013年4月21日号(第1310号)3面より