2017年はマルセル・デュシャンの名作―迷作?―《泉》の百周年。これを記念してデュシャンの作品収蔵では世界第一級のフィラデルフィア美術館で《泉》騒動をテーマとする展観が行われていた(~12/3)。
この騒動は1917年NYで開催された独立美術家協会の公募展にリチャード・マット氏が《泉》と題して出品した小便器が無審査を標榜する同展で展観拒否された事件である。
これに異議を唱えたデュシャンが同人雑誌『ザ・ブラインド・マン』で批判を発表。マット氏の手作りではないにしても、題名を付し、また小便器を上向きにして台に置くことでモノとしての意味を変え、すなわち「新しい思考」を提起したのだから、芸術である、という論戦を張る。これがデュシャンのレディメード理論の端緒となり、20世紀におけるオブジェの歴史が本格的に始動した。ほとんど「神話」の騒動である。
ただ、所謂「神話」には眉唾で臨んだほうがよい、というのは「知」の基本だ。
その意味では、作品展示もさることながら、本展の焦眉は、展観の導入部に用意された年譜だろう。簡略に紹介すると、
1917年1月―前年の秋から重ねられた会合をもとに独立美術家協会が設立され、大規模なアンデパンダン展を開くことになる。デュシャンも結成メンバーで、コレクターのアレンスバーグ宅などが会合場所となった。
3-4月某日―デュシャンはアレンスバーグらと一緒にJ.L.マット商会で小便器を購入する。
4月3‐9日の間の某日―デュシャンはR. マットの名前で《泉》を出品。おそらく著述家のルイーズ・ノートンが代理で持ち込み、出品者の正体を隠したと思われる。著述家で作家のベアトリス・ウッドが展示をアシスト。
展覧会の開幕前―「完全な表現の自由」という協会モットーにも関わらず組織委員の一部が《泉》の排除を決める。デュシャンとアレンスバーグは退会して抗議。
4月13‐19日の間の某日―デュシャンは拒否された《泉》をスティーグリッツの291画廊に持ち込み写真撮影してもらう。
5月5日―デュシャン、ウッド、著述家のアンリ=ピエール・ロシェは『ザ・ブラインド・マン』誌二号を出版。スティーグリッツ撮影の写真とデュシャンの批判文、ノートンのエッセイ「トイレの仏陀」を掲載する。
17年末から18年初頭にかけての某日―ロシェは《泉》の吊るされているデュシャンのアトリエ風景を撮影。その後まもなく《泉》は行方不明となる。
なるほど《泉》騒動は、デュシャンが確信犯で仕掛けたスキャンダルだったわけだ。
それから30余年たった1950年、《泉》をめぐる確信犯がまた一人登場する。画廊主のシドニー・ジャニスだ。パリの蚤の市で小便器を購入し自分の画廊で展観したところ、デュシャンは抗議するどころか「R. Mutt 1917」のお墨付きを与え、それが1998年にフィラデルフィア美術館の収蔵品となる。さすがに《遺作》を擁する同館ならではの展観だった。
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