富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] :抽象の英雄?

2019年01月26日 17:00 カテゴリ:エッセイ

 

ポロックのドリップ絵画(左)で始まる導入部は、白髪一雄が足で描いた絵画が対比する。筆写撮影

ポロックのドリップ絵画(左)で始まる導入部は、白髪一雄が足で描いた絵画が対比する。筆写撮影

 

メトロポリタン美術館で12月に始まった「英雄的抽象」は、館蔵品にローンを加えた61点で構成された展示で、同館としては意欲的な企画ではあるものの、現代美術への取り組みとしては不十分だとの批判が多い。

 

ところで「何が不十分か」を判断する基準は、この10年くらいで急速に変わってきた。

 

現代美術のグローバル化は、コンテンポラリー・アートの実践の面でも、世界美術史の論考の面でも後戻りできないほどに多元化が進んでしまったからだ。これを作品の収集や展示に積極的に反映できなければ、「不十分」の謗りを受けかねない。

 

メトロポリタンの「英雄的抽象」を考えると、個々の作品の優劣や是非もさることながら、同館が問題の本質を理解していないのではないか、と思われる節がある。多元化の基本は、「欧米中心型」歴史観は時代遅れ、なる認識に他ならない。たとえば非西洋の作品を購入して館蔵に追加するだけでは不十分。アートの見方そのものを抜本的に変えなければ、真の多元化、グローバル化はできない。

 

本展は副題が「ポロックからエレーラまで」とあり、定番的な近代絵画観に、カーメン・エレーラという女性を付加してジェンダーの多様化をはかり、更にエレーラがキューバ出身であることから、地理的多元化をも狙った意図がうかがえる。

 

だが、導入部分に展示されているポロックのドリップ絵画が如実に示すように、メトロポリタンは戦後抽象の「栄光」の出発点をアメリカ抽象表現主義として考えている。つまり、アメリカ中心主義の旧来の歴史観への根本的な変更はない。

 

エレーラの絵画(右端)は、ルイーズ・ネーベルソンの巨大彫刻(左)の後ろで影が薄い。筆者撮影

エレーラの絵画(右端)は、ルイーズ・ネーベルソンの巨大彫刻(左)の後ろで影が薄い。筆者撮影

 

私の立場としては、アメリカの抽象表現主義が一つの「栄光」だったことは認めるし、戦後のジェスチャー系抽象の中でも先駆だったことも否定するつもりはない。

 

だが、アメリカ史の観点からは、冷戦構造下の情宣戦略に政治的に利用された失敗などを見直す必要があるだろう。それはアメリカ美術史の研究者にまかせるとして、世界美術史の立場から考えると、どうなるか。

 

図式的には次のように説明できるだろう。戦前には各地域で進展の度合いが異なっていた複数のモダニズムが戦後には同調を始める。その同調を触媒したのがモダニズム絵画の最後に位置するジェスチャー系抽象だった。同調し始めた戦後美術は、しかしながらモダニズム以後を目指して、地域ごとに、その土地固有の状況に根ざした探求が台頭してくる。

 

だから、ポロックからエレーラという線形の展開構図では大雑把すぎて不十分なのだ。確かに全体としてはジェスチャー系抽象からミニマル的抽象へ流れるが、地域によって異なる動機とロジックで展開し、複数の物語が並行していく。「似たもの同志」をならべても、差異を示しつつ、それぞれの物語がビビッドに語られなければ片手落ちだ。

 

百歩譲って、ビジュアルな類似性だけで直線的に構成するのであれば、「エレーラまで」と銘打っている以上、大々的にエレーラでフィナーレを作り、ポロックのみならずエレーラの「栄光」を称えるべきだったのではないか。

 

全体的には女性作家や欧米以外の作家が数多く含まれており、努力のあとが見えるだけに、なおさら不十分さも感じてしまった。

 

井上有一の書(右端)のエネルギーが、クラインやマザウエルのジェスチャーと対峙する。手前はデービッド・スミスの彫刻。筆写撮影

井上有一の書(右端)のエネルギーが、クラインやマザウエルのジェスチャーと対峙する。手前はデービッド・スミスの彫刻。筆写撮影

 

クリフォード・スティルの晦渋な50年代的抽象(右)は、意外にも今日のマーク・ブラッドフォードの絵画(左)やチャカイア・ブッカーの彫刻(中央)と響きあう。筆者撮影

クリフォード・スティルの晦渋な50年代的抽象(右)は、意外にも今日のマーク・ブラッドフォードの絵画(左)やチャカイア・ブッカーの彫刻(中央)と響きあう。筆者撮影

 

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