富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] :オリジナルの30年

2019年04月26日 10:00 カテゴリ:エッセイ

 

中嶋興が魚眼レンズで撮影した松澤宥のプサイの部屋のスライドショーより。協力:慶應義塾大学アート・センター

中嶋興が魚眼レンズで撮影した松澤宥のプサイの部屋のスライドショーより。協力:慶應義塾大学アート・センター

 

―承前―前回はジャパン・ソサエティ・ギャラリーで私が企画した「荒野のラジカリズム」展にふれつつ、「グローバル」にまつわるこの20年間の変化を回顧して「時代の変化に参加した」と述べた。同じことは「オリジナル」にも言える。

 

私の仕事は「複数のモダニズム」を機軸とした「世界美術史」の構築にあるが、オリジナリティ信仰は、モダニズムに根強く潜んでいる西洋中心主義史観を担保する。つまり、「中心」である西洋がオリジナルにモダニズムの表現を開発し、「周縁」はそれを移入して模倣していく、という歴史観である。

 

具体美術協会が1958年にマーサ・ジャクソン画廊で具体展を開催したとき、ドーレ・アシュトンはNYタイムズ紙の展評で具体のアクション絵画が二重にポロックの二番煎じだと断じている。これが具体のみならず戦後日本美術の研究者にとって一種の歴史的トラウマとなった。ちょっと大げさな表現だが、初動的にアメリカで戦後日本美術研究に関わった私の実感だ。「立ちはだかる巨大な壁」と言い換えてもよい。

 

草間彌生が59年に《無限の網》の絵画で個展をしたとき、ドナルド・ジャッドは草間を「オリジナルな画家」であり、オリエントかアメリカか、という二項対立を超えている、と評価した。この言葉を大きな励みに、私は国際現代美術センターのスタッフとしてNY初の草間回顧展を89年に開催した。

 

これがアレクサンドラ・モンローとの協働関係の第一歩となる。そして94年にモンローが企画して横浜美術館からグッゲンハイム美術館に巡回した「戦後日本の前衛美術展」では、NYタイムズ紙のホランド・コッターが日本の戦後美術の表現が「独自(distinct)」だと評価した。「周縁は模倣」の先入観の壁に、小さいながらも一個の穴を穿った、と二人ともに実感した。

 

ところで、89年は、現代美術のグローバル化のさきがけとされる「大地の魔術師展」がポンピドーで開催された年でもある。実際には、それだけではなく草間展のような小さい積み重ねが現在を作っている。ラテンアメリカや中欧・東欧、アフリカやアジアのモダニズム研究が前後しながら進行して、文字通りに「複数」の広がりが確実に形になっていった。その中に私の仕事はある。協働と響応が必須で、一人でできた仕事では決してない。

 

(左)松澤宥《消滅の幟のパフォーマンス(御射山秘儀)》1970年の写真(羽永光利・撮影)を使った会場入口。Photo: Richard Goodbody 提供:ジャパンソサエティ (右)GUN《雪のイメージを変えるイベント》1970年の写真(羽永光利・撮影)を使った展覧会のバナー。写真撮影:筆者

(左)松澤宥《消滅の幟のパフォーマンス(御射山秘儀)》1970年の写真(羽永光利・撮影)を使った会場入口。Photo: Richard Goodbody 提供:ジャパンソサエティ
(右)GUN《雪のイメージを変えるイベント》1970年の写真(羽永光利・撮影)を使った展覧会のバナー。写真撮影:筆者

 

それから30年。今回のジャパンソサエティでの展観もNYタイムズ紙の展評をいただいた。同紙だけではなく、これまでに出た展評では、オリジナルか否か、という生産性の低い議論を越えて、日本における「東京の外」という地域性を理解しつつ個々の作品を評価するのみならず、日本の60年代が世界美術史の中で主要な位置を占める、という私の主張を理解してもらえたのがありがたかった。

 

それにしても、難解が常識のコンセプチュアリズムの展覧会にも関わらす、「楽しい」「面白い」という反応が一般の来場者から聞こえてきたのも嬉しかった。

 

ザ・プレイの展示は会場外の外側の空間も有効利用。ウォルター・デマリアの《ライトニング・フィールド》との比較を印象付けるべく、協働するコミュニティ的あり方を写真で紹介した。Photo: Richard Goodbody 提供:ジャパンソサエティ

ザ・プレイの展示は会場外の外側の空間も有効利用。ウォルター・デマリアの《ライトニング・フィールド》との比較を印象付けるべく、協働するコミュニティ的あり方を写真で紹介した。Photo: Richard Goodbody 提供:ジャパンソサエティ

 

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