東京国立近代美術館で昨秋展観された「アジアにめざめたら:アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代」展が韓国の国立現代美術館果川館(MMCA)に巡回しているが、関連プログラムのパネル(4月17・18日)に招聘されて、初めてソウルに行ってきた。
1986年にオープンした同館は小高い丘の上にあり、ちょうど公園の桜が満開で平日にしては入館者も少なくなかった。天井が高く開放感のある広い展示空間を利用して、「見せる」工夫が随所にあり印象的だった。
同展は次にナショナル・ギャラリー・シンガポールに巡回して打ち止めとなる。三館協働の企画で共通する作品群に加えて、韓国展では近年関心の高まっている民衆運動について、同館所蔵のアーカイブ資料や作品で拡充して特色を出している。それに関連した社会的テーマの作品類もゆったりと並べられ、中村宏や山下菊治の絵画も響き合う仲間に囲まれ一際光っていて、欧米中心的な抽象の歴史と並行して、ローカルな政治状況に根ざした具象の流れが、広くアジアに同時代的に展開していたことを主張している。
逆に、パフォーマンスやコンセプチュアリズムなど、先鋭な実験は並行した表現が何らかの時差を伴いながら各地で展開していく。
この時差は、モダニズムの成熟とも、社会の流動とも関連して、分析は一筋縄ではいかない。しかも、写真や映像記録、文書など、これを「見せる」のも一筋縄ではない。
たとえば、日本の作家に松澤宥やザ・プレイが入っている。作家から白紙委任で渡されたデジタルファイルを、写真としてどう展示するか。キュレーターとデザイナーに自由な裁量権がある一方で、「見せる」「伝える」責任も全面的に負うことになる。
が、NYの眼で見ても、グローバル水準の展示技術の高さで、この難題をこなしていた。
ザ・プレイの場合、壁紙大に引き伸ばした74年作品《トロッコ》の記録写真の上に、額装した写真やビデオ映像、ポスターなどの紙作品をアレンジして、一種のインスタレーションとなっている。他の出品作家の展示でも同様の趣向を用いていて、使用過多だと見飽きる嫌いはあるが、絶妙にこなしている。
大きいスペースを十分に使える利点は、女性作家のセクションや、ビデオアート、写真作品展示でも発揮されていた。
ただし、大きい展示空間も両刃の剣で、展覧会ごとの工夫は並大抵ではないだろう。同館のソウル館で展観していたアスガー・ヨルン展は、比較するとどうしても迫力に欠ける感が拭えなかった。
しかしながら、初見の印象だけであえて言うならば、展示デザインの重視は、韓国の国立機関の特色なのかもしれない。
街の中心から車で30分ほどの場所にある新しい国立中央博物館へも、国宝第83号の半跏思惟像を見に足を伸ばしたが、そこでも先史から三国時代の常設展の展示デザインが圧巻で、考古の埃っぽいイメージを払拭した展観に思わず見入ってしまった。
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