人口に膾炙した逸話というのは神話になりやすい。これも前回書いた「地雷」だろう。だが、この種の地雷除去には、それがフィクションだということを言うだけでは効果が薄い。神話をめぐる作品や事象の全体像を明らかにしてはじめて神話を解体できる。
米国の現代美術にも神話は少なくない。ポロックの作品中最大のカンバスは幅が6メートル強ある1943年の《壁画》で、これを熱狂のうちに一晩で描きあげたという神話がある。
だが、実は《壁画》にまつわるストーリーは、センセーショナルな神話以上に、歴史的に重要なエピソードに満ちていた。
そもそも1943年は、ポロックがフルタイムで絵画制作に取り組み、イーゼル上のカンバスに絵筆で描く絵画から、床置きのドリップ絵画の新境地へ向かっていく、その第一歩を記した年だった。転機の年である。
きっかけは、ペギー・グッゲンハイムの個人美術館兼画廊「今世紀美術ギャラリー」の年次コンペに出品したことにある。これをペギーのアドバイザーたちが高く評価。たとえば、モンドリアンは、若い作家の発する「ものすごいエネルギー」を絶賛した。
そこで、ペギーはポロックに月決めの手当てを出して制作に専念できる環境を提供した。おかげで、ポロックは「非対象絵画美術館」でのアルバイトをやめることができた(これはペギーの叔父の名前を冠したソロモン・R・グッゲンハイム美術館の前身だ)。
ペギーはポロックの個展を開催するだけではなく、自分のアパートのあるビルの玄関ホールの壁画制作もコミッションした。こうして《壁画》誕生の道が開かれたわけだが、直に壁に描画するのではなく、同寸のカンバスを使うことをデュシャンがアドバイスした。
同時期のWPAの壁画運動では、スタジオで制作したカンバスを現場の壁に設置する方法もあった。この場合、数枚の分割パネルを用い、アメリカ絵画に多大な影響を与えたメキシコ壁画と同様に、テーマは地元社会の歴史文化に取材した具象だった。対して、ポロックは、一切無条件の制作依頼を受けて、自宅アパートの仕切壁を取り壊して6メートルのカンバスを設置し、純粋に抽象絵画のためのみに存在する連続空間を確保した。
今から思えば、このこと自体がすでに大胆な実験だった。
その純粋空間でポロックが現前させた絵画は、近年ゲッティ研究所で修復専門家による科学分析に供された。その結果わかったことは、最初は絵具が乾く前にさらに絵具を重ねる性急な(熱狂を思わせる)手法を用い、そのあとは数週間とはいかないまでも、数日を費やして乾いた絵具の上に色を重ねて構図を固め、絵筆の描画だけではなく、絵具を散らしたり、染ませる技法も混在させている。
今回の特別展示「イーゼルから離れて」では、ペギー・グッゲンハイムがアイオワ大学に寄贈した《壁画》に焦点をあて、同年の重要作品《雌狼》(MoMA所蔵)や館蔵の《大洋の灰色》(1953年)も展観しながら、ポロックにおける抽象の成立と展開を考察する(9/19まで)。
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