今でこそ、戦後日本美術史の専門家として仕事をしているが、その昔テキサス大学で書いた博士論文は、ジョージ・リッキーがトピックだった。リッキーの動くステンレス鋼の作品は、1960年代から日本に入ってきていたのに対して、彼の母国のアメリカではマイナーな存在だったから珍しがられた。
いったん論文を書き終えると、今度はアメリカでは需要がないので就職に苦労した。紆余曲折があって戦後日本に落ち着いた。
今から考えると、リッキーでよかった、とつくづく思う。たとえば、60年代バリバリのジャッドやコスースなどをトピックにしていたら、アメリカの主流を理解することはできても、アメリカのみならず世界の傍流や周縁を理解する視点は培えなかっただろう。
私のリッキー論は、大西洋をまたいでアメリカ(カルダー、ミニマリズム)とヨーロッパ(キネティック・アート、新構成主義)の両方に繋がっていた作家のコンテクスト研究であり、一種の比較研究でもあった。それを作品のみならず、作家の思考言説との二本立てで論文を構成した。
現在の私の仕事を知っている人なら、三つ子の魂百まで、というだろう。何より私自身がそう思っている。トピックが異なるだけで、世界美術史としてモダニズムを複数形で考える視点の基礎はすでにそこにあった。
その意味では、長く残念に思っていることがあった。それは、私の研究者としての出発点となってくれたリッキーへ何の恩返しもしていない、ということだった。
畢竟、学者の恩返しは研究成果を発表することで、その作家の歴史化に貢献することが一番だと、私は勝手に考えている。どんなに素晴らしい作家でも、ある時点で歴史化は第三者にゆだねるしかない。
2002年に95歳で逝ったリッキーは今秋ルネッサンスの機会を得たようだ。まず、ペース画廊(超大手だからマイナー作家の面倒見がいいとは限らない)から中堅のポール・カズミン画廊に移籍し、画廊の地利を活かしてハイラインに面して野外展示が行われ、さらにリッキー財団の奔走でパーク・アベニューを中心にミッドタウンで全10点の公共展示が実現した。関連企画として10月20日にパネル討議がクリスティーズに会場を借りて企画され、私も招待された。リッキーについて英語でしゃべるのは博論以来初めてだ。
私のトークは、1967年の著作『構成主義』にヨーロッパのコンテクストを見る視点など、博論の骨組みを活かしながら、数年前にドイツのミュンスターで見た《旋回する三つの正方形》が、今では定評のあるミュンスター彫刻プロジェクトが始まるきっかけを作ったことを紹介。公共空間に彫刻のある意味を、昨今の社会関与型や参加型の作品とも重ね合わせて、動く作品だからこそリッキー作品に萌芽する21世紀的要素をも指摘した。
現在からさかのぼって歴史を考える視点は博論以降に獲得したもので、少しは成長したことを故人にアピールできたのではないかと思っている。
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