まだ少し早いが、今年の美術界で印象に残った事件の一つに略奪文化財の返還がある。
昨年あたりからベニン・ブロンズの返還がドイツなどヨーロッパを中心に加速度的に始まり、今年の10月11日にはワシントンでスミソニアン協会の国立アフリカ美術館が29点の作品をナイジェリアに返還するセレモニーが行われた。
ベニン・ブロンズは、英国が1897年にベニン王国を占領した時に略奪した数百点にのぼる儀礼用などの青銅彫刻をさす。西洋列強による植民地支配の歴史を象徴する芸術作品だが、グローバルサウスの発言力が強まり、ポストコロニアル(植民支配以後)の意識が鮮明になる時代がきて、ようやく返還が実現されるようになった。
1801年にエルジン卿がパルテノン神殿から略奪して長く大英博物館に展示されているエルジンマーブルも、ギリシアと英国の間に返還の合意が5月に成立したとの報道もある。
こうした動きは、帝国主義と植民化で西洋が地球上に版図を拡大した近代という時代が21世紀に残した課題の一つに他ならない。
美術史で近年進んでいる脱中心化やポストコロニアルによる歴史の読みなおし、また読み込みも近代の宿題に類する。
近代の宿題というと小難しい響きがあるが、それをいくばくかのユーモアも添えながら核心をついた辛口の史評になっているのが、副題に「(脱)植民主義、オリエンタリズム、アジアのイメージ化」を掲げたアイレット・ゾーハーの近著『The Curious Case of the Camel in Modern Japan』(ブリル)だ。
日本語に訳すと「近代日本における駱駝の奇妙な事例」となるだろうか。
江戸時代に異国趣味の見世物として人気を博した駱駝の表象にあてた一章は、浮世絵などの図版を見ているだけでも興味深い。
が、ゾーハーの本領は近代の宿題解決にある。太平洋戦争中の満州における軍の役馬代わりに使われた駱駝の写真表象を分析する一方で、満州侵攻の1931年以後、精力的に戦地を訪れた川端龍子の1938年の大作《源義経(ジンギスカン)》を論じる。4頭描かれた駱駝のロマンの背後にひそむ東洋の雄をめざした日本の地政学的野心の表象をゾーハーは鋭くえぐりだす。
その同じ駱駝が、戦後の日本では一転して平和の象徴になる。平山郁夫のシルクロードのシリーズに頻出する駱駝のイメージは、日本を終着点とする絲網之路が横切るアジアの文明や地域を遥かなる理想郷として描き出す。だが、この仏教的静謐と平和に満ちたノスタルジアは、急激な近代化とアメリカ化を進んだ日本へのアンチテーゼでもある。それをエドワード・サイード流にオリエンタリズムと看破し、アジアを「他者」化しているのではないか、という疑問を提起する。
ゾーハーの論考は、現代写真の野口里佳の《In the Desert》で閉じる。江戸の本草学の描写などと比べるからこそ見えてくる野口の本質は、リアリズムや客観性という写真の常套句への疑問なのだ。
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