古来、人間は見えないものを見ようとしてきた。宗教や神話、神秘主義やオカルトは人間の文化的知的営みに不可欠で不可避の次元を獲得している。
精神性や非物質性を希求して、不可視な世界を言語や形象によって表象しようとした芸術家は少なくなかった。
それどころか、19世紀ごろからは人文系だけではなく科学系の物質世界でも不可視が重要な役割を果たすようになる。なおさらのこと、不可視を想像した作品、そして不可視を創造しようとする能力が人類の遺産となる。
ここで「人類」と書いたのはレトリックではない。不可視を見ようとする探求は、洋の東西を問わず、時代の新旧を問わず、普遍的に実践されていた。その事実を思い出させてくれる企画展がドローイング・センターで開催されている(~5月14日)。
「神秘の世界にまつわること―はるかな過去から現在まで」と題した展観は、ニューヨークと香港を拠点とするインデペンデント・キュレーターのオリビア・シャオの企画による。展覧会図録の作家リストには29人の名前が挙げられているが、ヒンズー教のヤントラと《救世主の世界》と題されたシェーカー教のギフト・ドローイングを制作した無名の2人も含めて31人の作家による53点の作品を紹介する。
そもそも紙作品の展観だから見かけは地味だが、じっと耳をすますと微かな音が聴こえてくる――そんな比喩がぴったりくる展観だ。
ニューヨーカー誌が、シャオを「展覧会の錬金術師」と呼んだのもうなずける。
展示は、作家ごとに作品をまとめるのではなく、作品どうしの響きあいが手に取るように見えてくる組み合わせを重視した配置となっている。
たとえば、ジョージア・オキーフの鉛筆の抽象風景に、やはり鉛筆の省略筆法で記されたウォルター・デ・マリアの山並みの光景が並ぶ。ともにニューメキシコの自然の中で作品を作ったことを思えば、喚起的な並置だ。
そこに明朝末の画家・胡正言が出版した《十竹斎書画譜》の木版一葉が一緒に並べられて視覚と歴史の奥行きを演出する。
あるいは折り紙を金剛界曼荼羅状に配置した松澤宥のコラージュは1960年前後の典型的な作風だが、これが思想家のロラン・バルトの70年代のドローイングと並置される。かたや宇宙の普遍原理を凝縮した曼荼羅の探求であり、かたや言語システムに抵抗するコントラ・エクリチュールのささやかな冒険である。それぞれに見えない真理を追求する。
シャオの作家選択は、美術家に限らず、バルトに代表されるように職種を横断する。美術批評家のジャネット・マルコム、メトロポリタン美術館でギリシャ・ローマの学芸員を務めたエリザべス・ミルカー、映画監督のアンドレイ・タルコフスキー、前衛映像作家のジョーダン・ベルソンなど、異なる分野で創造の仕事に関わる主体の深層にひそむ不可視への希求に焦点をあて、作品の深奥へと私たちをいざなってくれる。
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