ジュディ・シカゴは、フェミニズム・アートの金字塔ともいえる《ディナー・パーティ》で知られる作家だ。1970年代に5年をかけて、古代文明の女神から20世紀の女性作家まで、偉大な女性たち39人を主賓にした晩餐会をテーマとするインスタレーションの大作を完成した(現在はブルックリン美術館に恒久展示されている)。
そんなシカゴの出自と《ディナー・パーティ》以後を見せる回顧展がニュー・ミュージアムで開催中だ(会期は3月3日まで)。
「Herstory」(彼女の歴史)という副題は、男性中心主義が含蓄されていると批判の多い「History」(彼の歴史)へのアンチテーゼだ。
1964年にUCLAの修士課程を終えたシカゴは、自動車やボートなどにDIYで加工を加えていくマッチョ文化の中で生活していた(例えば映画の『ワイルド・スピード』シリーズはこの南加マッチョの権化だ)。
ここで、敵と戦うために敵を知る、がシカゴのモットーとなる。ボート作りの学校に通ってファイバーグラス技法を学び、車体加工の学校に通いスプレー塗装を習得する。ともに男性だらけの環境の紅一点だった。同様に花火の技術も身につけている。
これらのマッチョ技術を、女性作家として女性の視点から構想した作品に適用する。
64年の《自動車のボンネット》は、その好例だ。60年代アメリカで一番売れたというシボレーコルベアのエンジンフードを使いスプレー塗装している。ボンネット絵画とでも呼べるだろう。これがシリーズの第1作だが、以後は女性性器や果物、蝶々など独自のモチーフを描き込み、70年代以降に駆使することになるアート以外の素材や技術への着目も予告されている。
ところで、シカゴの60年代は南加マッチョとミニマル・マッチョの二重苦だった。
シカゴは、スプレー塗装の技術をミニマル彫刻にも応用していて、66年にはジューイッシュ・ミュージアムの重要展覧会「プライマリー・ストラクチャーズ」にも、アン・トゥルイット、ティナ・マトコヴィッチとともに参加している。
出品したのは65年の《虹色のピケット》で、壁に斜めに立てかけた四角柱に施されたパステル調の色彩が新鮮だ。ただし、これまでの美術史の記述が証明するように、同展の女性陣は完璧無視、モリスやジャッドなどの無表情で中性的なマッチョ作家たちがミニマルの代表として認められることになる。
もっと悪いことに、ロスの学校を出たシカゴは、虹色の表面を持つガラス・ボックスで知られるラリー・ベルに代表されるロスの「フィニッシュ・フェティッシュ」と同一視されてしまう。NYを拠点にするジャッドたちが未加工に見まがうかのように産業素材を使っているのと対比した言葉であり、暗に西海岸の作家たちを見下している。
こうしてシカゴのミニマル作品は三重苦に見舞われ、その真価が再評価されるようになったのは最近のことである。
シカゴのオリジン・ストーリーで重要なのは、70年の個展の際に行った改姓がある。ユダヤ系のCohen家に生まれ、結婚後は夫の姓Gerowitzを名乗っていたが、「家父長制への抵抗」として夫の死を機にChicagoに改姓した。この頃から、女性としての経験を視覚言語に転化してく姿勢が強まっていく。
それがよく表れているのが、68年から始めた煙を使った野外パフォーマンスである。野外での発煙行為で赤などの色煙が霧のように風景の中に流れていくが、その中でヌードで行為するシカゴが中心であり、そこに凝縮された女性の地母神的な存在である。
ここでまたしても同時代の男性作家とのバッティングが起こる。スミッソンやハイザーなどマッチョにランド・アートを展開していた作家群に掻き消されて、最近ようやく評価が高まってきている。
「マッチョ」の連呼が続いて読者は辟易としているかもしれないが、それがアメリカの60年代美術であり、シカゴの出自だった。
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