戦後アメリカの美術と聞くと、抽象表現主義の席巻を思いうかべることが多いが、ポロックたちがたまり場にしていたシーダー・タバーンが世界の中心だったわけでは決してない。むしろ多様なアメリカ美術の状況を知りたければパリに目を向ける必要がある。
そんな主張をする「パリのアメリカ人」展がNYUのグレイ美術館で開催されている(7月20日まで)。グレイは、グレイ・アート・ギャラリーの名称でワシントン・スクエア近隣に位置していたが、今回改称、クーパー・スクエアに引越した。お披露目展は、美術史家のデブラ・バーケンとグレイ館長のリン・ガンパートによる共同企画で、約70人の作品を集めた意欲的な展観となっている。
戦後のパリにアメリカ人作家が集まった大きな理由の一つは、1944年に成立したGI法(復員兵援護法)である。授業料と1日75ドルの生活費を1年間保証するという同法の恩恵を活用して国内・国外の美術学校に学んだ作家たちは、戦後アメリカ美術の基盤を支える存在となった。
特にパリは、中級ホテルで1日1ドルの宿泊費と、アメリカ人にとっては格安。しかもアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールやアカデミー・ジュリアン、またザッキンやレジェーなどのアトリエは、授業料が重要な収入源となるのでアメリカからの留学生を歓迎し、その一方でフランス語は必須でなかったのでアメリカの美術学校よりはるかに敷居が低く、作家の卵に人気があったという。
もちろん、48年にGI法でアカデミー・ジュリアンに入学したが期待外れで半年でやめたラウシェンバーグのような例外もある(帰国後、ブラック・マウンテン・カレッジに転校している)。が、パリが重要な転機となったアメリカ作家は少なくない。
日系の田尻慎吉は、GI法でシカゴのアート・インスティテュートに入学するが人種差別が激しく、パリに出てザッキンのアトリエに入っている。ここで金属のガラクタ類を溶接したジャンク彫刻を展開させる一方で、ギャルリ・ユイ(Huit)を設立し、人種差別を逃れてパリに来たマイノリティ作家など広く同胞の作家たちを積極的に展観した。
そんな田尻の仲間意識を象徴的に表すのが、パリに遠征して人気を博したアフリカン・アメリカンのジャズ歌手、ビリー・ホリデーへのオマージュ作品だ。
独自の幾何学抽象で知られることになるエルスワース・ケリーは田尻と同じ48年組で、友人のラルフ・コバーンやジャック・ヤンガーマンとパリ郊外にあるアルプのアトリエを訪問して偶然を用いたコラージュ作品を目撃。自分たちも紙片を切って紙の上に落としたコラージュを実験し、それを絵画に展開するというインターポエティックな試みを行っている。
また、50年組のサム・フランシスは、53年にオランジュリーで展観されたモネの《睡蓮》を見て鮮やかな青と緑の色を使うようになる。ここにもインターポエティックが生きている。
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