アメリカ戦後美術の巨匠、リチャード・セラが去る3月26日に亡くなった。1938年生まれだから85歳だった。
60年代末に鉛の溶液を床に投げるという大胆なプロセス・アートで時代の先端を行き、80年代以降は、錆びた鉄板を駆使して数々の巨大彫刻で空間を演出するのが定番となっていた。公共彫刻も少なくなかった。
その一つ、81年にマンハッタンの連邦広場に設置された《Tilted Arc》は、連邦ビルに務める人たちに超不評で89年に撤去されたが、85年か86年の夏に見に行っている。まだミニマル彫刻の見方も分らず、アメリカの都市空間にも慣れていなかったから、ただただ茫漠としたスケール感に圧倒された。
訃報を聞いた直後、MoMAアーカイブで調査する予定が入っていて、帰りにジョーン・ジョナスの大回顧展(~7月6日)を下見していたら、セラの作品が出てきてびっくりした。
斬新な行為の表現で知られる女性作家のパフォーマンス作品《オーガニック・ハニーの視覚的テレパシー》のポスター用にセラが撮影した写真だった。
マネキンの顔のようなマスクをつけたジョナスがテレビを膝の上に載せ、その画面にマスクの大写しが映っている。シュールな画中画の趣向で、ポスターには未使用だったが、「グッドナイト・グッドモーニング」と題された回顧展図録のカバーに使われている。
そうなのか、と感心して数日したら、アーティストによるセラの回顧エピソードがartnet.comで特集されていて、ジョナスの談話も掲載されていた。引用してみたい。
「あまり知られていないことですが、リチャードは演劇、ダンス、詩を深く愛していました。〔美術では〕いい作品だと信じたら一生懸命応援してくれる。特に、女性の作品に力を入れて〔後略〕」。
またしても、そうなのか、である。
それからまた数日して、美術作家の伝記で知られるデボラ・ソロモンの記事がNYタイムズ紙に出ていた。現在ジョーンズの伝記を執筆中で、セラとの逸話を紹介している。
当時のアメリカでは、作家が他の作家の作品を買って支援するのは珍しいことではなかった。ジョーンズの場合、同じカステリ画廊に所属する当時30歳の新鋭セラの鉛投げの作品《Splash》が気に入って購入、69年に自分のスタジオに設置してもらっている。
鉛投げの作品は、特定の場所で作り、鉛が固まるとそこから動かすことのできない厄介な代物である。せっかく広くはないスタジオの角に設置してもらったものの、引っ越しの時に廃棄せざるを得なかった。ただし、91年にSF現代美術館から打診されて、作品の一部で手元に残していた鉄板を寄贈することにした。それを聞いたセラが、95年に同館でジョーンズ旧蔵の鉛投げ作品を再現したという。またまた、そうだったのか、である。
なお、この作品の記録写真と制作風景は次のURLで見ることができる。
https://www.nytimes.com/2024/03/29/arts/design/richard-serra-splash-piece-casting.html
≫ 富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] アーカイブ