[新美術時評] 美術と教育 〈 3 〉 中山忠彦

2013年03月21日 16:22 カテゴリ:日展

 

アカデミー中山・イン・蓼科

 中山忠彦(洋画家、日本藝術院会員、日展理事長)

 

 

入口に掲げられたパレット型のサインボード

新春号の新美術新聞紙上で、宮田亮平、建畠晢、東西の両芸大学長の対談による、芸術家の教育から更に芸術による教育に迄及ぶ、新年に相応しい壮大な卓見が掲載された。

 

旧臘、私にも小文寄稿の依頼を頂いたので、私は個人的に主宰している「アカデミー中山・イン・蓼科」の、前者とは対照的に極めて小規模な試みに至った、経緯と現状を記してみよう。

 

既に本紙に於いて重ねて御紹介頂いているので、御承知の方もあろうかと思うが、開設に至ったのは七年近く前になる。

 

日展の二科洋画に所属する一人として、私は予てから百余年の伝統を誇る曽ての陣容に比べると、停滞するばかりで魅力に乏しい現況を窃かに憂慮していた。一科の日本画は、三山を誇った往時の命脈が辛うじて保たれてはいたが、七団体から成る洋画は逸材が競い合った流れも途絶え、徒らに展示数のみが目立つ会場でしかなかった。

 

そこで当時の理事会に同席した、複数の団体の理事に、共同の作品研究会を試みてみないかと提案して、その場では賛意を得た。

 

日展は創立以来アカデミズムを標榜して歴史を刻んで来た。平生から日展にエールを送り続けて下さる瀧悌三先生と、日展以外で活躍している二人の画家、笠井誠一、中村清治両氏を講師に迎えて、日展会館を会場に二年に亙って試みた。私はオブザーバーで出席し、聴講生の持参した作品をもとに、基本的な絵画の組立てが話題の中心になった。初回は各団体から五十名を超える参加者を得て好調と見えた。ところが次回は四十名程に減少してしまった。訝しく思っていた折しも、出席しなかった若手の作家から、所属する会のリーダーから出席禁止令が出て、躊躇せざるを得なかったと聞いて私は衝撃を受けた。当初、賛成したのも本意ではなかったと、これも後で伝わって来た。理由は考える迄もなく明白だが、それを詮索しても意味がない。残念ながら所詮、これが日展二科の体質であり、限界なのだと私も思い直した。

 

それなら個人で考えれば良いと発想を転換して間もなく、好機は思わぬ形で訪れた。

 

アトリエでのミニコンサートより。左が筆者(2011年撮影)

蓼科高原での、私の夏期の仕事場に程近く、三百米の場所に理想的な建物が在り、百畳敷のアトリエ向きの新居と、別棟に二十名は楽に収容可能な宿舎、台所、広い食堂付の物件が見付かった。まさに天の恵みである。家内の積極的な協力で取得して、昨夏で開講して六年目を迎えた。

 

ここで写実の基礎から学びたい若手を中心に、夏期の一月半を会期にあて、信頼する白日会の優秀な画家と、遅れて参加して呉れた独立の一人も指導陣として依嘱し、前記三人の特別講師の協力も得て布陣を固めたが、残念ながらその内の一人中村清治さんが一昨年に亡くなられた。尊敬する作家の一人であっただけに、惜しまれてならない。

 

講座の内容は石膏デッサン、人物(着衣、裸婦)のデッサンと油彩、更に静物と、恵まれた自然環境を活かして風景写生など、己の目的によって選び分ける。

 

日本のコーカサスとも稱される理想的環境で、標高千五百六十米、背後に蓼科山、見おろして白樺湖、夏の日中最高気温二十五度、夜は肌寒い。その上澄んだ空気は乾燥して清々しい別世界である。食事は当番の手作りで、今では中々経験出来ない集団生活で、人間的交流も深まる。参加費は実費のみの負担にとどめる。お向かいの音大のピアノの教授が、ゲストと共にアトリエに家内が備えたセミグランドで、情操面の開発と五官の知覚の開発の為に、ミニコンサートを催して下さる。

 

芸術は本来教えられるものではない。感性は自らが養い、創作の表現技法の習得も各自の精進努力に依る。講師陣は己の経験を通して、作家としての在りようと、物の見方の厳しさをアドバイスするだけである。展覧会場の壁が無言の教師であるように、自ら学べる能力を持つ者だけが作家としての狭き門を通る。

 

教育、後進の育成など高邁な思想には遠く及ばずとも、一人の画家としてささやかな便宜と機会を供しているに過ぎない。すでに公募展などでの好結果を見るにつけ、講師陣の協力の賜と、感謝の念は深まるばかりである。

「新美術新聞」2013年3月1日号(第1305号)2面より

 

【関連リンク】 アカデミー中山・イン・蓼科 公式サイト

 


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