【新春インタビュー】 二人の日本画家に聞く 上村淳之×田渕俊夫

2013年12月24日 18:06 カテゴリ:美術と教育

 

新春インタビュー「美術と教育」の特別編としまして上村淳之・創画会前理事長と田渕俊夫・日本美術院代表理事にご登場頂きました。東西を代表する日本画家お二人に画業の歩みを通じた制作への思いを中心にお聞きしました。

 

 

花鳥画は自然との対峙から

上村淳之(創画会前理事長、松伯美術館館長)

 

 

 

上村淳之 うえむら・あつし(創画会前理事長、松伯美術館館長)

1933年京都生まれ。59年京都市立美術大学専攻科修了。56年新制作協会展に初入選し、74年から創画展にて発表を続ける。その後、母校で教鞭を執り、創画会では2012年まで理事長を務めた。13年文化功労者。唳禽荘と呼ばれる上村邸では現在263種、1600羽を超える鳥たちが飼育され、自然に根ざした観察眼で描く花鳥画を制作している。

画家の道へ

 

60年近い画業の中で、祖母に松園がいて、父に松篁がいて、世間からいうと一つの血統のように見られていると思うのですが、私はそういうプレッシャーが全くなかったんです。その理由は、反対されて絵描きの道へ入ろうとしたからです。本人は好きでやっているからつらくも何ともない。けれど松園に仕え、父の後ろでやってきた母はこんなつらい仕事ないやろと想像したんです。現在のテーマが鳥や動物になったのも、小さい時から京都の父の家には小鳥がいてハトがいて、ウサギがいて、ニワトリがいて、そんな家だったので遊び相手はもっぱら生き物。それが親しみ以上のものを感じるようになっていったんでしょうね。

 

また学校教育も一つのきっかけだと思うんです。京都市立芸術大学の成立ちは1880(明治13)年の京都府画学校に始まります。その時、各流派のドンが寄って、集団教育をしなければ駄目だと。いわば塾制というのはピラミッド型――塾頭がいてお弟子さんがいて。その愛弟子を全部放出して、集団指導体制をとった訳です。その中で言われてきたことは、権力志向を行使してはならない。それがドン達が考えたことなんです。それからいろいろあったその上に美術学校、絵画専門学校があり、しばらくして大学になるということです。

 

さらに戦後の一時期は公職追放令のなかで文部省管轄の文展に属していた人は学校の先生になれへんかった。たまたま在野にいた父が命じられて学校づくりをしたんです。そのときには創造美術の人たちは皆野に下っていたから、そういう人たちと在野におられた榊原紫峰先生、それから小野竹喬先生、徳岡神泉先生がいらした。だから、創造美術はその頃圧倒的に若い人に人気があったんです。その中で一番幸せやったなあと思うのは、なぜ日本画が衰微して行ったかということを、身をもってご存じの先生方に教育を受けたということなんです。各流派では描くことを様式として、あるいは手法として教えていった経緯があって、それでは駄目だと先生方は黙って何も教えない。ヒントを与えて考えさせるという教育であったと思います。例えば写生ができて「上村君、いい写生が出来ましたね」と言って褒めて頂く。次に、「でもすぐ絵にしてはいかんよ」「これは3年ねかせないと絵にしてはいけません」と。もちろん対外的な公募展に出品してはならないという固い校則があって、まだ基礎の段階だということを、暗に示している。そういう学校だったんです。

 

 

余白への思考

 

「晨」1974年112.0×162.0cm 紙本彩色 株式会社ヤマタネ蔵

「晨」 1974年 112.0×162.0cm  紙本彩色 株式会社ヤマタネ蔵

一番先生方が危惧されたのが、様式重視で教えてきたことが日本画を駄目にした、ということです。今は琳派も特別なもののように言われているけれど、あの装飾的な扱いというのは、なかったら絵にならへん。ただ琳派という装飾表現の中で、何が欠落したかといったら、様式だけが残って余白の部分については一切触れていない。それが様式だけが伝わるようになって、琳派も廃れていった。様式として余白を継いできたけれど、それでは駄目なんだということを、徳岡先生が一番先に立って私たちに教えられましたね。でも、作品の批評ではヒントを少し言わはるだけ。「3年間ねかせてから描くんだよ」ということは、今そのまま描いても、それは現実の再現になってしまう。絵というものはそういうものではないんだということを、言外におっしゃった訳です。

 

しかし、なかなか掴めるものではない。徳岡先生もそのことをお分かりになるのは菖蒲の絵です。それまでは様式一辺倒の絵を描いたり、様々な試みを皆なさっているんです。その苦労をお前らもやれと。やらへんかったら分からへんぞ、ということです。その当時も、美学という学問があるけれど、西洋美学です。東洋の美学について語るに語れないのは、実体験がないから余白の意味が分からない。父だって実際に分からなくて、奈良の雪煙の中にいる鹿の親子を描いた文展の出品画「山鹿」という絵が仕上がってから、「これでよかったんかいな」と思ったという話です。その向こうは靄っていて見えへんから鹿だけ描いてある。これが一つの実体験です。私も同じような体験として、靄っている水面に3羽の鳥がいる絵を描いて、向こうは見えへんから描く必要はないと、描き上げてから「ひょっとしてこれでよかったんかな」と思った事がありましたね。「晨」という絵ですわ。それから見えない世界というのが日本画の、いわゆる現視できない世界の中にいろんな創造ができて、日本画の余白というものが考えられたのかなと思いましたね。

 

 

「湿原の朝」2013年 162.1×227.3cm紙本彩色 個人蔵

「湿原の朝」 2013年 162.1×227.3cm 紙本彩色 個人蔵

花鳥画への思い

 

花鳥画を描く人が少なくなった理由は何かというたら、自然と人間との関わり合いが疎になってきていること。自然と対峙する中で花鳥画は出来るのであって、モノそれ自体は対象ではないのです。そういうことをこの頃つくづく実感するようになって、青い芥子を描こうとするならヒマラヤへ行かなきゃ、黒百合を描くのやったら北海道の釧路湿原の群生地へと、やはり相当時間がないと描けない。それが描けるように参画してきたのが西洋画ですからね。西洋の影響を受けて混ざり合ったような、そういう文化があるかの如き錯覚の中で、絶対に東洋と西洋は融合せえへんのです。油絵だからそう言うのではなくて、考え方が全く違う。いわゆる自然に対する目線が違うのです。東洋の人は農耕民族であったからという説明がされているけれど、農業をやっている人間は自然に逆らえない。自然の力を借りて、自然の力に教えられて農業を営んできたのに対して、狩猟民族というのは違うでしょう。それと同じように、農耕民族の目線をどんどん失っていって、上から目線で植物を見たり動物を見たりする。花鳥画というのはそうではなくて、同じレベルの生き物である、仲間である、友達であるという感覚の中でないと、花鳥画は生まれないです。若い人もそういう体験を積まなければ、というふうに思ってくれれば嬉しいですね。

 

 

若い世代へ

 

セイタカシギを観察する上村淳之氏

セイタカシギを観察する上村淳之氏

自分の今の立ち位置を確かめるのは、そんなに古いところから探らんでもよろしい。昭和以降の京都の日本画壇の推移を見たら、自分の立ち位置がどこにあって、間違わんようにするにはどうしたらいいか、全部答えは書いてあるのだから。そして自信を持ってやらはったらええと思う。伝統というのは、長い時間をかけてたくさんの人が関わって、それを淘汰して残って、よしとしたものが伝統であって、だからこそ普遍性があり根拠がある。だから伝統を打破するなんてひとりで出来るもんかと。伝統は伝統としてきちんと身に付けていて、それを根幹にしながら自分の仕事を進めていかないかんのです。(了)

 

 【関連リンク】

松伯美術館

一般社団法人 創画会

 


 

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