かたちを空間へ問いかける ― 退任展「アウト・オブ・サイト」
2013年春、池田政治は定年を迎え東京藝術大学を去る。
「Out of Sight」―今見えるもののひとつ先へ。1月4日からの退任記念展は、そう名付けられた。総合的にとらえることが困難なほど幅広い池田の活動を、展示空間へ集約する試みである。会場1階では約20点の彫刻などを展示。2階では、日の出から日没までを撮影した公共空間の作品を、大型スクリーンに投影する。類型化から逃れるように生きてきた池田の仕事が、展覧会と図録にまとめられようとしている。
群馬県前橋市で高校生までを過ごした。父は街の中心部で電気工事の店を営んでいた。空襲の傷跡ものこる戦後の風景。街中にはバラックが目立つ。暗くなるまで外で遊んだ。
高校3年時、授業で美術を選択する。東京美術学校を出た教師は池田の素質に気づいた。「藝大を受けないか」。気持ちが押される。けれども同じ頃、父が病になり亡くなる。働きに出る母へ、進学を請うことはできなかった。
その年の大学受験は諦め、翌年、金沢美術工芸大学を受験し合格。高校卒業後、一年間は受験資格のあった日本育英会の試験で奨学金を得て、デザイン科なら就職も叶うはずと母を説得した。金沢は亡くなった父の郷里。実家は九谷焼の絵付け職人であった。
柳宗理を知るのは、大学の集中講義でのことだった。卒業後、東京・四谷の事務所へ誘われた。しかし、池田は半年ほどで辞める。デザインのもつ「制約」に耐えかねた。そのため柳ともうまくいかなかった。若気の至りであったと今は思う。四谷駅に降りることもできぬまま、2011年に柳は逝く。その後、長男から原稿依頼を受けた。エッセイ「柳宗理デザインの視座」は、業績をたどる河出書房新社からの一冊に収録。「40年間の肩の荷が下りた」と感じた。
その後もデザインの仕事を手がけたが、いつも「制約」が池田を苦しめた。自由に、自分の手を動かしたい。60年代末、社会は騒然とし、職を辞していても失業した意識は薄かった。
「一度、生活を立て直したほうがいい」。彫刻家の妻・池田カオルの言葉をきっかけに、ふたたび藝大大学院へ進学する。素材としての木に出会うのはこの時だ。(つづく)
池田政治略歴:
1945年群馬県前橋市出身。高校の級友に映画監督の小栗康平がいる。69年金沢美術工芸大学卒業。73年東京藝術大学大学院修了。77年の初個展(みゆき画廊)以降、ギャラリーせいほう、前橋文学館などで個展を開催。75年より共立女子大学で教える(88年同大助教授)。90年東京藝術大学助教授(2000年同大教授、09年美術学部長)。85年、イタリア・国立ローマグラフィック研究所に留学。近年の主な個展に「生への回帰」(04年、日本橋髙島屋)、「天空へ」(10年、日本橋三越本店)など。公共空間の仕事では、群馬県庁舎アート計画の実施案、東名高速・足柄SAのモニュメントなどが代表作。08年より環境芸術学会会長。「GTS観光アートプロジェクト」実行委員長(10~12年)。
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