—活動の拠点は今日までNYです。節目として第46回ヴェネツィアビエンナーレの名誉賞でした。
千住 実は、大きな節目は第46回ヴェネツィアビエンナーレの後に来ました。そこで名誉賞を戴きましたが、これは東洋人として初めてでした。ちょうどそれは「創立100周年 絵画の根幹を問う」という大きなテーマの下に行われている展覧会でした。まさか東洋人が絵画で賞を取ることは誰も考えていなかった。幸運としか言いようがない。それで世界の著名な画廊が当然のように私のところに契約を求めて来ました。
しかし、そのとき別にお話をいただいたのが大徳寺聚光院別院の襖絵だったのです。迷うことなく、大徳寺聚光院の方を選んだ。そこが私の人生の最大の分岐点です。そのとき聚光院別院を断って、国際作家、現代美術家として生きる道も選択としてあったけれど選びませんでした。日本美術を根幹から支え牽引する「世界に通用する日本画」を証明すること、それこそが私の第一義でした。
—2016年春の京都・奈良における展覧会、並びに新たな構想を発表されました。
千住 ふり返って一番大きなことは、日本の古典文学—たとえば紫式部、紀貫之、松尾芭蕉、鴨長明……そういう巨大な存在が大きく私の人生を引っ張ってくれました。海外に行って自分は何者で、どこから来て、何を持って、どこへ行こうとするのか。自分のアイデンティティを実に見事にスラッと一本の道にして示してくれたのが芭蕉であり、紫式部らです。例えば源氏物語の空前絶後の存在感、日本の古典文学こそ日本発のオリジナルです。
平安時代に仏教がものすごく大きな影響力を持って日本に入ってきましたが、その中でも文学は影響を受けていません。絵画は中国色一辺倒です。本当の意味での「和風」は、二つのものから生まれました。一つは日本の古典文学、もう一つが岩絵具です。日本人が足元の天然の岩絵具に対して非常に魅力を感じたから、岩絵具的発想が身につきました。そこから国風文化が生まれていったのでその逆ではありません。つまり自然の側に身を置くことの尊さ、宇宙も含め、自然観とか—宝物は自分の足元にあること、自分たちは“宝石”の上で生き、暮らし、生まれているのだとの考え方とか、それらがあって初めて仏教的思想もうまく咀嚼できたのです。
—大徳寺は千利休の菩提寺で歴史と伝統の名刹。狩野永徳の国宝障壁画「花鳥図」や「琴棋書画図」とともに、400年の時を経て、千住先生の襖絵「滝」が配置され、一般に展覧公開されます。
千住 大徳寺聚光院があって、同時に薬師寺東院堂があり、これから高野山金剛峯寺がある。まさにこの順番が大事で、これが逆でしたら大変なことでした。まず大徳寺聚光院別院があって、ご住職が100年でも待つからとおっしゃって下さり、のびのびとやらせていただきました。次に大徳寺聚光院本院がありました。そこには廊下一本隔てて狩野永徳の国宝画が並んでいる—いわば偉大なペースメーカーが私を引っ張ってくれました。
その後、薬師寺から収蔵のお話が来るわけです。そのとき、たまたま手元にとてもいい六曲一双の崖の作品があった。全面プラチナ地で、揉み紙による、私も気に入り手放したくなく、自分で一生持っていたかった巨大な六曲一双の屏風ですが、迷うことなく、薬師寺に収蔵して頂けたらと、全くいい時機にお話が来て、納められることになった。
その後、思いがけなく金剛峯寺と接触がありました。巨大な存在としか言いようのない、弘法大師空海、その空海が開いた金剛峯寺—どこよりも遠く、しかも同時にどこよりも天空に近い場所、高野山の人里離れた山の上に開かれたお寺です。ここに手つかずの部屋が本堂に二つあったのは、奇蹟です。ここを任せると、宗務総長が仰ってくれた。ここまで聚光院別院、本院があって、薬師寺と少しずつお寺の襖絵とは何かと引っ張ってもらった経緯がありますので、金剛峯寺という巨大な山に向かう準備ができました。
ただ一点急ぎつけ足さなければいけないことがあります。何かというと、金剛峯寺が最終の山だと言うわけではありません。大徳寺聚光院、それは一つの頂点です。世界遺産薬師寺は薬師寺で一つの頂点です。金剛峯寺は金剛峯寺でやはり世界遺産、これもまた一つの頂点です。大徳寺聚光院は都会の洗練されたお茶のお寺です。千利休の墓があり、今も茶道三千家の家元がお茶会を催す、世界に向けての茶道文化の発信拠点で同時に禅の総本山です。