【団体】 第80回記念 独立展 - 独立美術協会の80年 個と協働の集積 〈2〉

2012年10月09日 17:38 カテゴリ:その他ページ

 

 

 

80回展を迎える独立

今井信吾(独立美術協会会員)

 

今年で独立展は80回を迎えますが、懸案であった『独立美術協会80年史』を作りあげることができました。何年かの準備を重ねて外部からの多くの方々のお力添えをいただいたこと、又全会員の非常な気持ちの盛りあがりと協力のお陰です。

 

独立展の歴史やスケールをつかんで書くということは私にできるわけがないので、私の個人的な独立とのかかわりから書いてみます。

 

私は高校3年のとき、このころはすでに東京藝大の油画科を目指すという方向を決めていたのですが、1956年の5月頃だったでしょうか、尊敬の気持ちを強く持っていた安井曽太郎の遺作展が京橋の国立近代美術館とブリヂストン美術館2館をつかってひらかれました。どうしても見たくて姫路から夜行列車で東京へ行き超満員の会場に入りました。肩越し、頭越しでないと見ることができなかった名作のなかに安井曽太郎のデスマスクを描いた重厚なデッサンがあり、強烈な印象を受けました。描いたのは林武、まだ知らない名前でした。私と独立との最初の接点でした。藝大に合格したばかりのころ先生になにか希望があるかと聞かれて林教室に入りたいといったら、それは4年になってからだということでした。

 

林教室に入ったことで自然に独立への出品ということになったのですが、当時の林先生は神と人とのあいだくらいの印象です。我々の独立出品など何の関心もないという御容子でした。独立がどういう会であるかもよくわからないで出品してみると、これはゴツイ会だなあという一発なぐられたようなショックを受け、ここで生きていくのかと、茫漠とした不安がわき上ってきました。そのころ(30回から40回くらい)の独立展は本当に熱気のかたまりで、引くことを知らないつわものたちが俺が俺がとひしめいていました。不思議なことに俺が俺がの集団が何か妙な「和」というのか、解りあえているあたたかい集団であることも感じとれたのでした。林先生をはじめ何人かの創立会員や海老原さんもお元気で、沸きたつような豪奢な会場のことをおもうと、このころの荒ぶる盛りあがりを若い世代に何とか伝えて行きたいと思います。

 

今の独立の会場も盛りあがりということでは昔に負けるものではありません。ある意味では独立展はいま頂点のときを迎えようとしているようにも感じます。こういうときこそ、心して、この独立を、高みのままに持続させていくことが大切と考えています。

 

 

第79回独立展 独立美術協会会員記念写真より

 

 

崖に眼を描いた画家

齋藤研(独立美術協会会員)

 

昭和13年、この年、日本の記念すべき名作、靉光の「眼のある風景」が独立展の8回展で最高賞を受賞している。

 

現在、「眼のある風景」は竹橋の東京国立近代美術館で常設展示されるが、独立展の80年をお祝いしてこのたび刊行された『独立美術協会80年史』の図版でも、作品「眼のある風景」は、あたりを払ってテキ無し状態である。

 

時代に、画家の“眼”は何を見、何を感じ、何を訴えようとしたのか、語り尽くされたこのテーマに、改めて注目する。というのも、日本が今直面しているのは靉光の時代と、(見方によっては)よく似ている。イヤイヤ、人間はバカじゃない、歴史に学ぶことで、過去の過ちを繰り返すことはないのだ、と、信じたいところだけれども、ことはそう簡単ではない。反核だの脱原発、恒久平和だのと、唱えることは容易いが、現実は厳しく常に難しい。こんにちの日本の状況に(画家も)心は痛むのだが、そんなとき、靉光は日本の“崖っぷち”に、眼を描いた。

 

これから遭遇するはずの日本の国の内外について予測することはできない。予測はできないけれども現実の問題は山積して事態はまさしく内憂外患、この古い四字熟語がぴったりすぎるのだ。方丈記も語るように、古里は津波で流された。自分は福島第一原発から50㎞地点で仕事をしている。

 

約80年前 、日本の崖っぷちで、崖に眼を描いた画家のような、そんな名案はトント浮かばないがとにかく頑張って仕事をして、独立展の80 回展に参加できる。これはラッキーと思っている。

 

「新美術新聞」2012年10月11日号(第1293号)1面より

 

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